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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

月下の囁き

作者: Kudryavka

暇つぶしにやった、AIをKPとしたクトゥルフっぽいTRPGの1人用シナリオをプレイしたときのログを基に書いたリプレイ風小説です。

ファイル失くす前に置いておく備忘録みたいなものなので、中身のレベルや、話の破綻は気にせずに。


シナリオ名:月下の囁き

KP:Copilot

PL:霧雨響(23):私立探偵


導入あらすじ

 最近、地元で“月の声を聴いたものが消える”という噂が出回っている。旧家「九頭家」の洋館では、かつて満月の夜になると屋敷中に怪しい囁きが響いていたという。

そしてつい先日、君の知人が「囁きを聞いた」と言い残して消息を絶った——

手掛かりは、満月の夜に九頭家へ向かったことだけ。君は真相を確かめるべく、その洋館へ向かうのだった。



霧雨響は九頭家の洋館の前に立っていた——


——降りしきる雨は、あの夜と同じ。瓦屋根から滴る雫の音が、過去の傷を静かに呼び起こす。満月は、雲の切れ間からわずかに顔をのぞかせている。


玄関の扉は、わずかに開いているようだ。まるで“入れ”と言わんばかりに。そして、洋館は確かに——微かに、月に似た「声」が漏れている。



彼は扉の前に立ち尽くすことなく、冷静に周囲へ視線を走らせる。探偵としての感が告げる——この屋敷はただの古びた建物ではない。



玄関のノブには、わずかに乾いた赤黒いシミが見える。それはどこか血痕のようにも見えた。

足元には靴跡が1組。最近のものらしく。雨水が乾いていない。履いていたのはおそらく革靴で、自分のものより少し小さいようだ。

窓のひとつは半開きになっており、レースのカーテンがわずかに揺れている。しかし、外に風が吹いていないことを、彼は知っていた。

屋根裏方向の瓦に、黒い鳥のような影が留まっているが、それは一瞬で姿を消した。羽の音は聞こえなかった。


周囲は静かだが、静かすぎる。まるで世界が屋敷の中に吸い込まれているような、そんな空気だった。

彼は窓の方に視線を向けるとゆっくり近づき、慎重にその周囲を観察し始める。風もないのに揺れていたレースのカーテン。その不自然さに、警戒心が自然と強まっていく。


窓枠をそっと指で触れる。そこには、内側から何かがひっかいたような細い傷跡が無数に走っている。動物のものにしては高すぎる位置にも思える。

カーテンの内側を見ると、細く折れた鳥の羽が1枚引っかかっていた。それは黒く、しかし艶がない——死んだ羽のようにも見える。

窓の外からは聞こえなかったが、屋敷の中から微かに、“くぐもった囁き声”のようなものが漏れていた——


ふと窓の下を見ると、鉛筆のキャップのようなものが落ちていた。持ち主の名前か、会社のロゴか。掠れていているが、微かに「…月印刷」と読めた。


彼が記憶を探ると、その文字には微かに覚えがあった。


大学時代、親友とともに調査した事件のひとつに、廃刊寸前の怪文書を発行していた「青月印刷」という同人系の印刷所があった。「月が笑ってる——」最後に残した親友の言葉。あの時読んだ雑誌の“最後の記事”にも、そう書いてあった気がする。

奇妙な一致だ。あの親友の失踪。落ちていたこのキャップ。“月”にまつわる因縁が、またしても目の前に現れた。


このキャップは、確かに過去の事件と繋がっている可能性がある。この洋館で、何かが繰り返されているとしたら——今度こそ、真相にたどり着けるかもそれない。


彼は窓から身を滑り込ませ、洋館内部に侵入する。

窓の先は、薄暗く、少々カビ臭さを感じる書斎だった。

耳を澄ませると——確かに、何かがある。


床下から「きし、…ぎ…」と音がする。誰かが歩いている、…いや、這っているような、そんな鈍く湿った音だ。

書斎の奥にある扉の向こうから、わずかな紙をめくる音。まるで誰かが静かに読書をしているかのようだ。

そして最も奇妙なのは、部屋の隅の古時計が、針もないのに“コツ…コツ…”と音を刻んでいることだ。まるで、存在しない時を数えているかのように。

彼は、書斎の中心に置かれた古びたテーブルへと歩みを進める。上には、湿気を含んで波打った革張りの日記帳と、封をされた黄ばんだ茶封筒が置かれている。誇りが薄く積もっているが、最近誰かが触ったようにも見えた。

日記帳を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。


「…満月の夜、再び“囁き”が始まった。あの音は、私の罪を暴く声のようだ。九頭家の“秘宝”は封じたはずだが、もう手遅れかもしれない。」


「彼らは“月を見てはいけない”と言った。私には、もうそれがどういう意味なのか、分かってしまった気がする…」


どうにも要点のつかめない内容だ、と、日記帳を机の上に戻し、もう一つの茶封筒を手に取り、封を切った。

封筒の中には、写真と地図が入っていた。

モノクロの写真で、若い男女が屋敷の前で笑っている。男の方は、彼の親友によく似た顔をしていた。

折りたたまれた古地図を広げてみる。どうやらこれは、この洋館の見取り図のようだ。裏には鉛筆で、“鍵穴”の記号とともに、「書斎→隠し扉→地下」と走り書きがされていた。


この部屋にはまだ隠された扉がある——彼の心に警鐘が鳴る。

真実は、手の届く距離にある。だが、それに触れたとき……何かが“目を覚ます”かもしれない。


彼は脳内に広がる嫌な予感を振り切るように頭を振り、“コツ…コツ…”と音を刻む古時計の前に立った。この時計の異様さに眉をひそめる。

この時計には——短針も長針もない。なのに、音だけが規則正しく鳴り続けている。


時計の下部、振り子の奥には小さな金属製の鍵穴が隠れていることに気づく。通常の巻鍵ではない、やや特殊な形状だ。

側面の装飾版に、月を模した意匠が彫られている。半月のような彫りが、どこか不安を煽るように感じた。

そして、時計が“鳴る”たびに、書斎の床の一部が微かに震える感覚。——そう、まるでどこかが連動して動いているような…


さらに耳を澄ますと、古時計の内部から薄く何かの囁きが聞こえる。

それは——「……まだ…終わっていない…」という、かすれた声だった。

彼は、コートの内ポケットから小型のピックセットを取り出し、ほとんど無意識の手つきで鍵穴に触れる。指先は研ぎ澄まされ、錆びついた機構のわずかな感触を読み取っていく。


どれほどの時がたっただろうか。


——カチ


乾いた音とともに、時計の裏板がわずかに開き、内部機構の奥から薄い金属板のようなものが滑り出してきた。


その小さな金属プレートには、「Kの印」と彫られている。おそらく“九頭家”の頭文字だろう。裏側を見ると、半円型のへこみがある。

さらに内部から、時計の振動と連動した金属の駆動音がして——すぐ隣の本棚が“カツ…コツ…”と音を立てて、わずかにずれたのがわかる。


時計を開けたことで、書斎の一角が静かに動き出した。押し込まれた古い本の背表紙に隙間に、わずかな風の流れすら感じる。


そのときふと——彼は一つ思いつく。

今手に入れたこの金属プレートのへこみ。この形をどこかで見たことがある。

彼はそのプレートを、古時計の側面——“半月”の意匠に重ね合わせる。その瞬間。


カチリ…ッ


細かな機構が作動する音とともに、装飾版の一部がガコンッ…と内側に沈みこんだ。

時計の脇にあった壁が、まるで“呼吸するかのように”わずかに震え、やがてそこに縦長の隠し扉が現れた。


扉の内部は完全な闇。空気は冷たく、そしてわずかに——磯の匂いがする。

ここは内陸のはずなのに。

懐中電灯で照らせば、コンクリートと石で組まれた古い地下通路の入り口が、まっすぐ奥へ伸びているのが見える。


この先に進めば、もう戻れないかもしれない——

彼は一度扉から離れ、先ほどできた本棚の後ろの隠し通路に向かう。


微かに開いた隙間から顔を出すと、そこには狭く無機質な地下通路が、まるで喉元へ続く食道のように奥へと伸びていた。

コンクリートの壁には湿気が染み込み、懐中電灯の明かりに照らされて苔の緑と、黒ずんだ手形が浮かび上がる。何者かが、確かに——最近、ここを通った痕跡がある。

そして、通路の奥からは微かに潮と鉄が混じった空気が漂ってくる。内陸にあるはずのこの屋敷で、なぜ海の気配がするのか…。


数メートルほど進むと、通路は二手に分かれている。

片方には、古びた看板に「記録室」と墨書きされた、ゆがんで鍵の壊れた扉。

もう片方は、真っ暗な穴のような空間。壁には、「口を…塞ぐな」という掠れた落書きが見える。

彼の足元で、水滴が“ポタ…ポタ…”とリズムを刻み始めた。


彼は、左手に懐中電灯、右手にゆっくりと扉の取っ手を掛け——「記録室」へと踏み込んだ。


ガチャリ。蝶番が軋み、湿った空気が頬を撫でる。そこは、かつて九頭家が使用していた文書保管室のようだ。崩れかけた木製の棚に、巻物や札束、写真フィルムのケースなどが雑然と詰め込まれている。彼は、部屋中に視線を走らせる——


壁の一面には、家系図らしき古文書が広げられている。名前は墨が滲み読みづらいが、最下段の一人だけに「✕」の印。

棚の上には、録音テープと思しきリールと、電源のない手回し式のプレーヤーが置かれている。

足元に散らばった紙屑の中には、「“囁きを記録してはならない”」「“あれは声ではなく…記憶の染み”」という不気味な走り書き。

そして一枚の写真——日付は古いが、九頭家の地下に似た構造の空間で誰かが“月を仰いでいる”姿が写っている。顔は陰に隠れて見えない。

そして、壁際に鉄のロッカーが一つ。重々しく、鍵がかかっているようだ。


彼は、壁に貼られた、傷んだ家系図の前に立つ。墨が滲み、年数を経てぼやけた名前の数々。しかし、じっと見つめるうちに、不自然な点が浮かび上がってくる。


九頭家は少なくとも五世代にわたる血筋であり、各代の当主の名前が記されている。

名前の横には日付のようなものが並んでいる。これはおそらく“没年”であり、ある代からそれがすべて満月の夜に集中している。

最下段の一人——名前の上に「✕」印、さらに血のような赤い斜線で塗りつぶされている。

その者の名は「九頭(くず) 静流(しずる)」。“嫡流からの追放”という注釈がうっすら残っている。

その静流の横に、さらに異質な記載。「帰還…記録不明」「※封印対象」——まるでこの人物だけ“人間として扱われていない”ような記録。


静流の没年は不明だが、日記に出てきた“罪”“月の声”“封じたはずの秘宝”という語が——すべてこの人物の記録と一致する。この“静流”こそが、月と囁き、地下に続く“何か”の鍵を握る存在かもしれない。



彼は家系図の前から離れ、次に調べるべきものを物色し始める。

そして次に棚の上の録音テープに手を伸ばした。

リールを回そうと手を伸ばしかけた瞬間、背筋にふっと走る違和感に気が付いた。

それは“知識”ではなく“直感”の領域——鋭い洞察力が導く、名状しがたい気配。


この部屋の空気が、他と違って微妙に“閉じている”。まるで音が響かない構造。

テープに触れた瞬間、時計の鳴動と同じ“間隔”で何かが動いたような気配があった。

そして、部屋の外——奥へと続く通路の穴から、一瞬だけ「笑い声にも似た波動」が微かに伝わってきた気がする。

そして何より、この録音が“囁きを記録したもの”だとすれば——今まさに、彼自身が“聞いてはいけない声”を呼び起こそうとしているのではないかという、明確な警鐘。


彼は、まるで冷水を浴びせられたかのように手を引っ込めた。プレーヤーのリールは空しく揺れていたが、指先が触れたあの瞬間——そこに“何か”が目を覚ましかけていたような感覚があった。

思い出すのは書斎で見つけた日記帳。

「“囁き”は声ではなく…記憶の染みだ」「記録してはならない。それは封じた“鍵”を回す行為になる」


息を整え、静かに周囲に目を配る。今の自分の状況は——

・地下通路の存在

・記録室で封じられた人物「九頭静流」の存在を確認

・録音の再生は危険な可能性があり

・地下にはさらに奥の部屋がある

・右側の通路には「口を…塞ぐな」という不気味な文字


冷静になってみると、この状況はまだ探索途中。「すべてを知るより、進むべき時は、踏み込む覚悟と退く理性の間にある」そんな風に考えた。


彼は一度テープから離れ呼吸を整えると、改めて部屋に置かれたロッカーの前にしゃがみ込む。先ほどと同じようにピックセットを取り出すと、鍵穴に差し込んだ。数秒の沈黙の後——


カチッ。


鈍い金属音とともにロッカーの扉が、軋んだ音を立てて開いた。中からは——


木箱の箱。黒漆で塗られ、上蓋には「封」とだけ書かれている。蝋で封印されていたが、すでに割られた形跡がある。

九頭 静流の写真。若き日の肖像写真のようで、鋭く見入るような目つきでカメラをにらんでいる。裏には、「帰還せしもの、再び声をもたらすな」と手書きで記されている。

古い新聞の切り抜き。

メモ用紙。

そして、金属製の短剣。全長30cmほどで、銀色だが刃はない。代わりに、“耳”の意匠が彫られている。柄には「沈黙こそ救済」の文字。


これらからの情報を統合すると、


・“月の囁き”は記憶を媒体として拡がる呪いのようなもの。

・“静流”がその発信源であるか、あるいは門としての役割を果たしていること。

・銀色の短剣が、封印ないし終止符となる鍵の可能性を示唆している。


ロッカーの中身を物色し終えた彼は、この静かだった記録室の空気が——すこしずつざわめき始めていることを感じる。

静かに銀の短剣を取り出し、その重みを掌に感じ取った。

“耳”の意匠が彫られたそれは、まるで「聞こえないための刃」のようだ。


彼は記録テープの前に立ち、深く息を吸った。

沈黙。そして、思考が冷ややかに冴え渡っていく。

これは「聞くか」「断ち切るか」の選択——だが、もはや確信していた。

これは“聞いてはならない声”だ。


彼はナイフを構え、テープのリールを一刀のもとに切り裂いた。

乾いた音が室内に響き、その瞬間、部屋全体がふっと「軽く」なった。

まるで、この空間を蝕んでいた“記憶の染み”が断ち切られたような——

そして、時計の“音なき刻み”が止まった。


記録室の空気は穏やかになり、奥の通路から感じていた“波動”も静まった。

“月の囁き”は、彼が記録に触れなかったことによって、記憶として誰にも宿らなかった。

“静流”が、誰かの耳を通して“還ってくる”こともなかった——


だが、まだすべてが終わったわけではない。この封印が“すべてを閉じた”のか、“一時遠ざけただけ”なのか——それは、さらに進み続けることで明らかになるのだろう。


彼はふと、書斎で聞こえた“声”のことを思い出す。封印の術はある——短剣を手に、一度書斎へ戻ることにした。

書斎に戻ると、かつて“声”が滲んでいた空間に再び耳を澄ます。

だがそこは、今や別の「静けさ」に包まれていた。


時計の“音なき刻み”が停止した今、部屋全体がまるで深い眠りに落ちたような静寂を保っている。あの「くぐもった囁き声」は、今は全く聞こえない。まるで“再生されなかったテープ”が、空間そのものの記憶を封じたように。書棚、本、カーテン、家具——物音ひとつなく、室内は時計以前の“前の静けさ”に戻った印象すら感じられる。


つまり——声は“聞かれなかった”ことによって、存在そのものが薄れていった可能性が高い。

テープを断ち切ったこと、それがこの囁きの“終息”につながっていると考えられる。


とはいえ、それはあくまでこの空間においてのこと。地下に広がる“月の囁き”そのものの正体は、まだ残されているかもしれない。

彼が選んだ沈黙は、世界の均衡を保ったのかもしれない——だが、囁きは本当に終わったのか?


懐中電灯の光を細め、冷静な眼差しで書斎を再び見まわした。先ほどまでは“囁き”が満ちていた空間も、今は違う——沈黙の中に、なお何かが“残っている”ような感覚がある。


壁に飾られたほこりをかぶった油彩画の裏に、何かが“貼られて”いる感触。

裏側には古い新聞の切り抜きが何枚も貼られており、中でも「九頭 静流 行方不明事件 続報」という見出しが目を引く。記事によると、“最後に地下から響いた音を聞いた”という目撃証言があったらしい。


本棚の最上段、手の届きづらい場所に分厚い皮装丁の書物。タイトルには【月輪記】とある。

九頭家に伝わる“月神に関する祭祀と記憶の封術”が記されていた。特に「声の封印は“耳を模した刃”で物理的接触を断つこと」と記載あり。やはりこの短剣は“終止符”だったのだ。



彼は一通り書斎を調査した。この部屋には、もはや“実体”としての脅威は感じられない。

だが、この洋館そのものが月の周期に反応する“記録装置”になっている可能性を感じられた——


彼は静かに懐中電灯の光をそらし、屋敷の地上部分へと足を向かわせる。地下にうごめく“声”への探求を一時保留し、屋敷全体の構造——その過去と秘密を、丹念に洗いなおす覚悟を決めた。


書斎の扉を静かに閉じ、足音を忍ばせて屋敷の一階、玄関脇の応接間へと向かった。ドアに鍵はかかっていない——だが、ノブが妙に冷たい。まるで内部の空気が、時を止めているかのように。


キィ…と扉を開けると、そこはかつての優雅さを微かに残した空間だった。


暖炉は煤けた煉瓦造り。中を覗くと白く焼け焦げた紙屑の残骸。誰かが何かを燃やしたようだが、灰にうっすらと“文字”が残る。

古びたソファとテーブル。ソファの隙間から、緑色の革表紙の手帳。ページにはびっしりと文字があるが、一部インクが滲み読めない。

壁には絵画が飾られている。その時、絵画の裏から何か“紙の束”が滑り落ちる音がした。

天井を見上げれば、かつては煌びやかに輝いていたであろうシャンデリア。一部が崩れており、上部に細工された金属製のレリーフが仕込まれているようだ。


彼はまず暖炉にしゃがみこんだ。火の気の無い灰をそっと指先で払う。白くなった紙片は崩れかけていたが、一部、インクが焼け残った線が浮かび上がっていた。


「“…音を燃やすことでしか、存在を…ることは…できな…。”」「“耳が記憶を持つ。それを切るまでは…ともに在り続け…”」「“……静流は戻ってくる。月が満ちるときに。”」


この紙は、何者かが“声”または“音”を記録した文書を処分しようとした痕跡だろうか。

内容から察するに、この暖炉は「封じの儀式」の場として使われた可能性が窺える。

特に気になるのは、「静流」の名と「月が満ちるとき」の言及——それは時間的な封印の限界を指し示すのだろうか。


この灰の中に、“音の痕跡”が残っていたのかもしれない。——だが、今それは物質ごと灰に還っている。代わりに彼の中で、もう一つの断片が繋がった。


その後彼は、ソファから緑色の手帳をそっと引き抜いた。インクが滲んでいる部分はあるものの、丁寧な筆跡でびっしりと綴られた記録が、中のページから強い執念をにじませていた。


「…静流の声は夢にも忍び込む。夜毎、満月の海に立つ彼女の姿を“見せられる”のだ」

「祈祷室での“封じ”は一時的効果しかない。記録に依存せず、“空間そのもの”を封じる術が必要だったのだ」

「もし声が漏れたら、再び“銀の刃”を月の中心で振るうこと——」

「あの時計は“時”ではなく“門”を刻んでいる。誰かがまた、鍵を回してしまうのだろうか」


——応接間だけでも、この屋敷の「鍵」がいくつも残されている。この手帳はおそらく、かつてこの封印に関与していた誰か…あるいは静流と直接対峙した人物のものだろう。


彼は手帳を胸元に収める。この情報が真の“終わり”を迎えるために、きっと不可欠になると信じて。



次に、壁に掛けられた絵画に近づく。額縁に手をかけ、そっと持ち上げるように外す。裏面には木製の裏板が釘で止められていたが、下部の一角がわずかに浮いていた。まるで「みつけてくれ」と言わんばかりに。


裏板を外すと、いくつかのものが転がり落ちてきた。


封筒に入った一組の書類。表には「九頭 静流 審問記録(抜粋)」と書かれている。流し読むと、「…まるで“囁き”が記憶の具現であることを自覚していたかのような証言だった。」とある。

粗末なスケッチ。クレヨンで描かれた“人の顔のような月”が笑っている。下に子供の筆跡で「おかえり」とだけ書かれている。紙の裏に「S.Ku」と鉛筆書き——静流自身の幼いころの落書きだろうか。

そして鍵束。小さな金属の鍵がいくつか、色あせたリボンでまとめられていた。そのうち一本には「祈祷」と刻まれている。


これらの情報をまとめると、

・静流は“声”をただの呪いではなく、自分の記憶/感情の残滓として受け入れていた。

・囁きは単なる霊的現象ではなく、“残留思念”や“個人史”に結び付いた存在かもしれない。


彼はそう考えると、ふぅ、と息をついた。

屋敷に入った時とはずいぶん状況が変わってきている。初めは姿を消した友人を追ってきたはずが、どうやらとんでもないことに巻き込まれているらしい。ぼんやりとそんなことを考えながら、応接間の調査の続きに取り掛かった。


天井を見上げ、レリーフの刻まれたシャンデリアをじっと見つめる。それは、ほこりの覆われながらも、どこか異質な“工芸製”が漂っていた。


レリーフの細部をよく観察してみる。

真鍮製の円形装飾で、直径は約30cm。

中央には満ち欠けする月を模した浮彫があり、周囲を「耳」を象った小さな紋章が12個取り囲んでいる。

一見ただの装飾に見えるが、月の模様の”中央”に、わずかな切れ込み。鋭利な何かを“差し込む”構造に見える。銀の短剣をかざすと、その切っ先がレリーフの中心にピタリとはまった。


その瞬間——わずかに、金属音。そして、どこか遠くで「低いうねりのような音」が響いた気がした。…いや、“共鳴”と言った方が正しいかもしれない。

このレリーフに“刃を差し込む”ことで、何かが開く——あるいは、何かが“戻ってくる”のかもしれない。


しかし、あまりにも情報が足りない。

そう考えた彼は、手帳や鍵束に記された部屋——祈祷室へ足を運ぶことにした。

先ほど見つけた「祈祷」と刻まれた鍵を手に、洋館の奥へと向かう。

地図を頼りに歩みを進めると、廊下の突き当り、扉の上に微かに「禁」の文字が浮かぶ古びた扉が現れる——ここが祈祷室だ。

鍵を差し込むと、静かな抵抗の後、ゆっくりと鍵が外れる。

彼は静かに、しかし確かな意思を持って祈祷室へ侵入した。



祈祷室は、薄暗く、窓のない小部屋だった。床には月を象った白亜の紋様か描かれており、中央には黒い燭台と灰の山。

壁一面には、満月と耳を組み合わせた紋章が繰り返し刻まれている。見ていると、妙な“リズム”を感じるような気がした。

奥には台座と、台帳のような石板が設置されていた。そこには、

「記録とは封印、声は記憶を得て広がる」「沈黙を選びし時、門は閉ざされる」「耳に宿りし“残響”を断つ刃、月の中心にて掲げよ」

とある。

そして、その裏にはちょうど短剣がはまりそうな窪みがあり、応接室のレリーフ同様、“刃を捧げる”儀式的な構造になっている。

銀の短剣をここに捧げることで、より強固な沈黙——永続的な封印が施される可能性が、そこにはあった。

だが、それを行えば——刃はもう使えなくなるかもしれない。それは、再び囁きが目覚めたとき、“切る手段”を失うということでもあった。


今はまだ、その時ではない。

彼は静かに懐中電灯を掲げ、祈祷室の隅々にまで光を滑らせた。声なき封印の部屋——だが、その沈黙の奥には、まだ語られていない“記憶”が潜んでいるようだった。



部屋の中央に小山のように積み上げられた白い灰。灰は紙や布ではなく、何か植物のような繊維質であった。彼が灰を除けるように掘ると、焼け残った木札の一部が現れる。

そこには筆で「留声(とめごえ)」と書かれていた。——封じの儀式で燃やされたのは、“声そのものを記録した対象”かもしれない。


床の中央に大きく描かれた月の白亜紋様。よく見ると、満月部分にうっすらと“耳”のような模様が浮かび上がっている。——月の縁には微細な裂け目と、細工された溝が浮かび上がっている。…これは液体や粉末を流すための導線だろうか?


壁の紋章列に触れると、かすかに“音”が返ってくる。耳を寄せると、無音の中に“濁った波”のような残響が微かに感じられる。彼には分かる——これは、空間の内部に“囁き”が封じ込められている兆候だ。


燭台を移動させてみると、床に鍵のかかったハッチが現れる。鍵穴は先ほどの“鍵束”の中のひとつと一致する。この下にも何かが眠っているのだろう。


おそらく、この祈祷室は“声”や“囁き”を抑え込むために空間全体が封印装置として機能しているのだろう。これまでに屋敷で手に入れた情報、そして銀色に光る短剣はすべてこの封印構造に関与しているはずだ。そして、壁から聞こえてくる囁き。ここは、単に「封印を施す」場所ではなく、声と記憶の物理的貯蔵庫でもあっと可能性が高いはずだ。


すでに“月”は静まっている…しかし、それは永遠の沈黙か、一時の呼吸か。


彼は祈祷室を後にし、静かに扉を閉じた。封印の“刃”とともに歩みを進めるのは、一つでも多くの断片を拾い、真に“終わらせる手段”を見出すため——



彼は屋敷の北側…薄暗くひんやりとした空気の漂う廊下の突き当り、物置部屋の前に立った。ドアには古びた鍵がかかっているが、鍵束の中の一本で難なく開錠できる。ギィ…と軋む音とともに、重く閉ざされた空間がゆっくりと開かれる。


部屋の内部は薄暗く、大部分に古びた布に包まれた木箱や家具が散乱していた。壁際には、使い古された祈祷用の祭具だろうか——木札や紙垂(しで)、鈴といったものが放置されている。何よりも目を引くのは、中央に横倒しになった大きな木箱。その側面には、誰かが手で書いたのだろう、「耳に入れるな」という文字が見える。

彼が部屋を歩くたびに、床に散った埃が舞い、微かに「誰かがここで最後に何かを隠した」痕跡が窺える。


「耳に入れるな」と記された木箱に近づき、慎重に懐中電灯をかざす。側面には小さな割れ目があり、そこから内部をのぞき込むと、何かが入っているのが見えた。


干からびた赤黒い紐状の束。まるで人間の耳に似た形をした封札が編み込まれている。

封札の一つ一つに、掠れた筆で書かれた文字が見える。「しずる」「おと」「かえすな」…

など、意味の断片が浮かんでいる。

紐の束の中心には、淡く光を帯びた鉱石のような珠が埋め込まれている。それは微かに震え、“声のような残響”がうごめいているように見える。

その声は聞こえない——だが、胸の奥に“直接響くような圧力”が確かにある。

この束はおそらく、複数の“囁き”を集め、封じた記憶の結晶なのだろう。

音ではなく、記憶そのものを束ね、祈祷と封札で抑え込んだ媒体だと思われる。

「耳に入れるな」という警告は、文字通り“聞いてしまえば戻ってくる”という意味なのか。


触れることも、見つめ続けることも——すでに危うい。だが、もし“完全な封印”を志すなら、この封束そのものの処理方法を見極めねばならない。


彼は息を整え、その手に銀色に光る短剣を握りなおす。箱の中——うごめく“記憶の束”を見据えるその眼差しには、もはや迷いはなかった。

箱の蓋を少しだけ開き、決して“音”が漏れぬよう慎重に刃を差し込む。その刹那——


ザリッ


という重く濁った音とともに、短剣が“封札の束”を貫く。刃が触れた瞬間、束の中心に埋め込まれていた鉱石が微かに光を放ち——そして、音もなく砕けた。


部屋の空気が一瞬だけ波打ち、彼の耳に“何かが遠ざかるような感覚”があった。

封札は灰になり、ゆっくりと崩れてゆく。残響はもう感じられない。突き刺した短剣を見ると、先端にわずかな黒ずみが見られるが、損傷はないようだ。

封印は「定着した」。この束は“聞かれずに終わった”。つまり——誰の耳にも宿ることなく、記録にも戻らない“純粋な沈黙”として還ったのだ。


彼が選んだのは、記録することでも、葬ることでもなかった。断ち切ること——それが彼の答えだった。


静かに頷き、銀の短剣を手に、館の沈黙を深く刻む旅に出た。もはや“囁き”は存在しない。

けれどそれは、“再びあるかもしれない”という可能性との戦いでもある。


彼はまず書斎へと再び足を運んだ。書斎は変わらず物音ひとつない静寂に包まれていたが、わずかな緊張が残されているように感じた。古時計の振り子の奥に短剣をそっと滑り込ませると、銀色の刃は、最初からそこにあるべきものように、音もなく沈んだ。

刹那、部屋の空気がふっと弛緩する感覚を覚える。まるで、時計が、時が、「ここから先には進まない」と言っているかのようだった。

振り子はもう、動かない。


また、本棚の奥に続いていた地下通路。かつてそこへ誘っていた裂け目は、時計の封印に連動するように、石が滑らかに伸びて閉じていく。

まるで何事もなかったかのように——空間の“喉”そのものが塞がれていくような閉塞感。

それは封鎖ではない。“存在ごと初めから無かった”ような気配の消失だった。

空気の流れが止まり、通路の残り香すら感じ取れない。


次に彼は、応接室へと向かう。天井から垂れ下がる真鍮のレリーフを見上げ、再び銀の短剣をその中央に差し込む。刃がはまり込むと、周囲の「耳」の意匠がカチリと連なるように収束し、満月を象った環が、徐々に——音を立てずに——欠けていった。

金属が微かに震え、部屋全体が“耳を塞いだような”籠った沈黙に包まれる。

確信した。この空間はもう、音を記録しない。

ここでは、“声”そのものが定着しないようになったと。


再び祈祷室へと戻ると、中央の石台にある窪みに、短剣を静かに捧げるように置いた。

刃は石と光に包まれ、わずかに震えてから、ふっと輪郭を溶かすように消えていく。

残されたのは床に浮かぶ白い月型の痕跡だけ。

それは満ちても欠けてもいない、“静けさの満月”だった。

銀の刃はもう存在しない。彼の手にはもはや何も残されていなかった。

それでも、彼の胸の奥には、“祈らなかったことによる祈り”だけが確かに刻まれていた。


最後に物置へ再び戻った。

残された灰の残滓。彼はそれを慎重にかき集め、拾った手帳から取り出した祈祷札をかざした。わずかに札が暖かく発光し、灰は風もないのにふわりと宙を舞うと、音もなく空気に融けていった。

“耳に入る前に、記憶にもならずに消えた”——それは、ただの終わりではない。“始まらなかった記憶”の解放だった。

彼は立ち尽くす。空間には、ただ一つの音すら残っていない。



声が宿る余地は、もはやこの屋敷に存在しなかった。囁きは記録されず、耳にも届かず——ただ、“沈黙そのもの”がこの空間に、祈りとして満ちていた。

彼は扉の前に立ち、雲の隙間にかすかに見えた満月を見上げる。

それはもう、彼に何も語らない。


だが背を向けた瞬間、足元で——“濡れたページのめくれる音”がした。封じた記憶に、誰かが手を伸ばしたような——そんな、気配だった。



Ending:封じる者





















……頁の音は、消えたはずの“あのとき”を呼び起こした。






























書斎。

時計の脇に、あの金属板がまだ置かれていた。

応接室のレリーフは満ちたまま、月を笑わせている。


そして、彼の手には——まだ、銀の短剣があった。


「もし、すべてを封じなかったら」

「もし、“声が残した痕跡”を辿っていたとしたら」


その可能性は、今もなお、この頁の外側に開かれている。



>▶_再構成シナリオ解放:

>《月下の囁き:記録に残ったはずの声》_

>“あの選択の直前”から物語を再始動しますか?






















まるで、長い夢を見ていたようだった。


銀の短剣は、彼の手の中にまだあった。


床の埃に落ちた小さな痕跡さえ、“これから起こる封印”の舞台装置として未だそろっている。それは——封じ終えたはずの記録の断面が、もう一度“その選択の直前”にまで巻き戻されたことを意味していた。


そして、思い至る。

あの夜、封印を選ばなかった可能性。いや、選ばなかったのではない。

今まさに、これから選ぼうとしている。


封印の印を刻むのではなく、沈黙の理由を理解しようとしたもう一つの流れ。


月は同じように雲間を照らしている。けれど、空気が違う。それは「静けさを守った者」ではなく、「その静けさに意味を問う者」としての空気だ。


彼の耳には、もう“声”は聞こえない。だが、その静けさが意味しているものを、彼は知っている。声が去ったのではない。——受け止められるまで、待っているだけだ。



彼は、封印の刃を胸元に収めた。それは断ち切るための道具ではなく、まだ誰にも届いていない「理由」に寄り添うための、ただの重みだった。



屋敷は静かだった。けれど、その静けさは“封じられた”ものではない。まるで、何かが「語られるのを待っている」静けさだった。


彼の歩みは、あの夜選んだ封印の儀式とは異なる線を踏んでいた。思い返すように、辿りなおすように——それでも、確かな意志を持って。


階段を上がりながら、彼は記憶にはない“行っていないはずの場所”の気配を感じ取っていた。屋敷の二階、月光の届かぬ廊下の奥にひとつ、閉ざされた扉がどこかこちらを見ているように立っている。

そのプレートには、掠れた金の字で名が刻まれていた。【九頭 静流】——かつてこの屋敷に“在った”者の最後の私室。


彼は、扉の前で立ち止まる。銀の短剣は抜かれない。代わりに、鍵束の中からひとつ。月と耳を重ねた刻印の鍵を選ぶ。


カチリ。


扉は、彼の到着を予期していたように静かに開かれた。




中は薄暗く、壁に吊るされたステンドグラスが淡い輪を床に投げていた。月の輪。窓ではないその光は、まるで“外界と関係のない月”だった。

ベッドは整えられておらず、床には読みかけの本、散らばったメモ、封をされてない日記帳。

その表紙には、彫るような筆跡で刻まれていた。


「返さないで」


彼は、それを開くことはしなかった。代わりに、ただ手を添え、微かに染みついた体温の名残に耳を澄ませた。


部屋の中央には、小さな録音機材と蝋管。どれもひび割れ、溶け、歪められている。

——誰かが意図的に「聞こえないように」壊したのだと分かった。


そこにあるのは、かつて“声を録ろうとした者”の記憶であり、同時に“声を聴いてほしくなかった者”の意志でもあった。

クローゼットの扉の内側に、鉛筆書きの自画像。その横に、走り書きのような言葉。

「私は声。忘れないための形。 誰かが“聞いて”くれたら、私は私になる。」

“聞かないこと”が祈りだった世界で、この少女だけが——“聞いてもらうこと”を、存在の証にしようとしていた。


彼はわずかに息を吐く。この部屋に、祈りとしての沈黙は似合わない。

ここは、語られなかった声が、「語られることすら望んでいた」部屋だった。

月輪の光が彼の靴先に届く。そこには、誰にも届けられなかった祈りが、まだかすかに暖かく沈んでいた。



次の選択は、すでに始まっている。

語らないか。語るか。それとも、記録もせず、ただ——「理解するだけの者」として在るか。

そのすべての余白が、今この頁には開かれている。



彼は、静流の部屋の扉を静かに閉じた。その手のひらには、今しがた触れていた声のぬくもりが、まだ少しだけ残っていた。けれど、部屋の奥にある“語られなかった日記”や“壊された録音”たちは、不思議と彼の背を引き留めなかった。それは、理解がすでに“聴かれずとも届いた”という証だったのかもしれない。



彼の足は、屋敷の屋上へと向かっていた。手すりの傍、崩れかけた木扉の鍵には、先ほどの束から選ばれた一本がピタリと合う。


軋むような音を立てて扉が開かれると、夜の空気が胸の奥にまで降ってきた。屋上——かつて九頭 静流が最後に見上げた月を、正面から迎える場所。

満ちゆく月が、雲の隙間から覗いていた。冷たい風が髪とコートの裾をゆっくり撫でる。

屋上の手すりには、微かに削られた痕跡がある。まるで“見えない耳”でなぞったような線。

そこに薄く、刻まれていた。


——ここに、名前のない声を還します。


その言葉を、読み上げることはなかった。代わりに、“聞かずにわかる”という感覚が胸にしみわたっていく。


声は記録されなかった。語られることもなく、封じられもしなかった。ただ、ここに還ったのだ。


再び階段を下り、祈祷室へと戻る。床の中央に描かれた月紋様の内側——黒い燭台を外移動させると、鍵のかかったハッチが現れる。


カチリ。


鍵が回ると、地下から冷えた空気が吹きあがってきた。そこには、“音のない圧”だけが漂っている。


梯子を下りる。


蝕室。球体状の閉鎖空間。反響のない壁。呼吸音さえ、ここでは“誰にも届かない”。


中央には、ひとつの黒曜石の祭壇と——割れかけた蝋管の原盤。その上には、手書きの文字が残されていた。


「これが最後の“記録”。 聞かなくていい。 私が在ったという記憶だけ、あなたのどこかに残ればそれでいい。」 ——九頭 静流


彼の胸は、確かに何かで締め付けられていた。だが、それは“悲しみ”ではなかった。

記録せず、語らず、ただ“知っていた”ということだけが、いま最も強い共有だった。


蝋管には触れなかった。彼にはもう、触れる必要がなかった。



屋敷を歩きながら、彼は静かに場所を辿っていった。


——ステンドグラスの月光を受ける部屋で、「返さないで」と刻まれた日記帳に手を重ねた。


——月見台の手すりに指を滑らせ、刻まれた名もなき祈りの言葉をその指先に遺した。


——地下の蝕室で、声が語られなかったまま存在できることを知った。



そのどこにも、封印はなかった。ただ、“赦された声”が、それぞれの場所で呼吸を終えていただけだ。



そして、扉の前に立つ。屋敷の外——門扉に指をかけて振り返ると、かつて満ちていた囁きは、もうどこにも存在していなかった。

いや——存在していたとしても、それは彼の中で“赦されたまま”眠っている。


銀の短剣は、もうどこにもない。

声も、封印も、記録も。けれど、それでも。


彼は——響は、静流のことを忘れなかった。

忘れないことで、彼女を“声として記録しなかった”。




この物語は封じられたのではない。終わったのでもない。

ただ、“赦し”として、胸の中の沈黙に収まっていっただけだった。





Ending:赦す者


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