花と私
昼休みのチャイムが鳴ってから、もう十分ほど経っている。
文場高校、二年一組の教室は、昼休み特有のゆるいざわめきに包まれていた。
窓際の席では、女子たちが机を寄せ合い、弁当を広げている。
一方廊下では、パンを買いに行く生徒たちが行き来している。
教室の窓は半分ほど開けられていて、春の風がゆっくりとカーテンを揺らしていた。
外からはグラウンドでボールを蹴る音や、運動部の掛け声がかすかに聞こえてくる。
その中で、ひときわ弾んだ声が響いた。
「翠ぃい〜〜!!聞いて!!!!」
声の主は、斎藤花。
長い茶髪が背中のあたりまで伸びていて、動くたびにさらりと揺れる。
明るい目元と整った顔立ちは、クラスの中でもよく目立つ。
花は椅子を半分回して、後ろの席にいる少女の机へ体を乗り出していた。
そして、その後ろの席に座っていた少女が、遊佐野翠。
この物語の主人公である。
透き通るような肌に、儚げでありつつ意思がある目元。
黙っていればどこか壊れそうな雰囲気があり、顎の少し下でそろえられた短い黒髪が、顔の輪郭を静かに縁取っていた。
翠は表情がほとんど変わらず、感情が読みにくいせいで、周りからは近寄りがたいと思われることが多々ある。
それでも花は、何も気にせず翠に話しかけていた。
というのも、翠と花は生まれたときからの幼馴染なのである。
元々二人の母親同士が親友であり、その流れで翠と花も一緒に居る機会が多かったのだ。
そして気づけば腐れ縁となり、今でもずっと仲がいいのである。
「さっきさ!!!!」
花は興奮気味に身を乗り出した。
「高岡くんと話せたんだよぉおぉおぉ!!」
高岡とは、花の好きな男の子であり、本名を高岡誠太という。
「へえ」
翠の短く興味のない返事を気にもせず、花はウキウキで話し続けた。
「先生にワーク届けに行った帰りにね、高岡くんが『今日の5時間目なんだっけ?』って聞いてくれたの!!!」
「いやそれただの質問じゃん」
「でもねでもね!!そのあと世間話してくれてさ!」
「へえー」
翠と花が雑談で盛り上がっている間にも、教室のあちこちで笑い声が上がっている。
誰かがジュースのキャップを開ける音。
机を動かす音。
窓から入ってくる風の音。
いつもの昼休みだった。
その時、教室の前のドアが、ガラッと開く。
数人の男子が入ってくる中、一人の男子を見た瞬間、近くの女子たちの声が少しざわついた。
「水瀬くんだ……!!」
「やばいイケメンすぎる……、!!」
「今日も素敵〜!!」
その男子の正体は、水瀬碧。
翠と同じクラスメイトである。
整った顔立ちと、すらっとした体型。
どこか芸能人のような雰囲気を醸し出している。
まぁそれもそのはずで、碧は芸能人一家の息子として有名だった。
そんな碧だが、芸能活動は一切しておらず、彼の兄が現在モデルとして有名なのだ。
碧は友達の机に向かって歩いて行く。
それと共に、女子たちの視線が自然とそちらへ流れていった。
花もその流れにつられて碧を見る。
そしてぽつりと呟いた。
「水瀬くん、、かっこいいなぁ〜♡♡」
翠は呆れたように花を見て、小さくため息をついた。
「高岡くんは?」
「好きピとイケメンは別!!」
花の主張に、翠はまたもや小さなため息をつく。
そのとき、ポケットに入れていた花のスマホが小さく震えた。
ブッ、と短い振動音。
花はスマホを取り出し、ちらっと画面を見た。
そして、ほんの一瞬だけ、花の動きが止まった。
「どした?」
翠が首を軽く傾げると、花はすぐにスマホをポケットにしまってしまった。
「なんでもないよ!」
いつも通りの花の笑顔のはずなのに、その笑顔はさっきよりほんの少しだけ落ち着いていた。
「今日さ、ちょっと寄り道しようと思ってるんだよね」
「ふーん」
「だからさ…、一緒に帰れないかも」
「おっけー」
「冷たい!!」
花のムスッとした顔に、翠は少しだけ笑った。
本当に、ほんの少しだけ。
それを見て花は、どこか満足そうに頷いた。
「翠さ、もっと笑った方がいいよ?せっかく可愛い顔してるんだからさ!!」
「別にいい。」
「も〜う!!」
そんなやり取りをしている途中で、教室のチャイムが鳴った。
昼休み終了の音。
あちこちで椅子が動き、弁当箱がしまわれる。
そして花は立ち上がり、椅子を元の場所に戻した。
「じゃ、またあとでね!」
「うん」
花は自分の席に戻っていった。
長い茶髪が背中で揺れている。
その背中を、翠は何となく見ていた。
理由は特にない。
ただ、いつもと同じ昼休みだった。
何も変わらない、普通の日。
だからこそ、翠は夢にも思わなかった。
このあとに起こる残酷な未来も、自分の人生が
ここから大きく変わってしまうことも。




