第二章 死影
由美が咳をし始めたのは、ちょうど梅雨に入った頃だった。
最初は気にも留めなかった。季節の変わり目はいつも体調を崩しやすいし、雨の日には関節もこわばる。けれど、咳は日を追うごとに少しずつ、頻度を増していった。夜中にふと目を覚ますと、隣の布団からかすかな息苦しそうな音が聞こえる。由美は気づかれまいと枕に顔を押しつけていた。
「このごろ、夜中に咳してるな」
何気なく浩一がそう言った朝、由美は台所で湯気の立つ味噌汁をかき混ぜながら、「うん、ちょっと冷えたかもね」と笑った。
その声は、いつも通りだった。けれど、どこか少しかすれていた。
浩一はそれ以上、何も言わなかった。ただ、少しだけ長く、由美の背中を見つめていた。
団地の階段の昇り降りも、由美は最近少ししんどそうだった。以前なら軽々と登っていた段差で、息を整える間が見えた。だが、彼女は決してそれを口に出さない。買い物袋を片手に「大丈夫よ、足腰はまだ元気」と笑う姿が、どこか痛々しくもあった。
「歳をとるって、こういうことなのかね」
ある夜、テレビの健康特集を見ながら浩一がぼんやりつぶやいた。すると由美は、「そうねえ、無理しちゃいけない年齢なのかも」と、冗談めかして笑った。
その笑顔は変わらなかった。だが、浩一の胸には何か重いものが残った。
病院に行こうか、と言いかけたことがあった。でも由美の表情を見て、言葉が喉の奥で止まった。彼女は何かを悟っているような目をしていた。自分の体の変化をきっと一番よくわかっているのに、浩一に心配をかけまいとしている。それが痛いほど伝わってきた。
寝室で布団を並べて横になると、由美は背を向けたまま小さく咳き込んだ。
「風邪、まだ抜けないのか」
浩一が声をかけると、由美は「大丈夫よ、うるさくしてごめんね」とだけ言った。
その声があまりに軽やかだったから、浩一は余計に胸が締めつけられた。嘘のない嘘。優しさで包んだ逃げ道。その裏側にある恐れを、彼も少しずつ感じ取りはじめていた。
朝、洗濯物を干す手がとまる時がある。台所で薬箱を探している姿を、ふと目にする。どれもほんのわずかな違和感。でも、それが積み重なって、不安という名の霧になっていく。
浩一はその背中に、何も言わずに手を伸ばした。けれど、触れはしなかった。
触れてしまえば、その「何か」を認めてしまう気がした。
六月の空は、どこまでも鈍色だった。
外は雨の音がしていた。ぽつ、ぽつ、と、まるで何かが静かに崩れていくような音が、遠くから聞こえていた。
そしてその音は、これから何かが訪れることを、静かに告げているようにも思えた。