表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

第一章 声のぬくもり


 出会ったのは春のことだった。桜が咲き始めた頃、由美は市役所で臨時職員として働いていた。毎朝決まった時間に通勤し、淡々と書類を処理する日々の中で、特別なことなど何もなかった。そんな生活の中、浩一との出会いは、まるで静かな水面に落ちた一滴のしずくのように、何かを静かに変えていった。


 浩一は市役所に併設された市立図書館の職員だった。初めて話したのは、コピー機の使い方を尋ねた時だったと思う。彼は少し驚いたようにこちらを見て、それから小さく笑って、「こっちですよ」と丁寧に案内してくれた。その笑顔は少し照れくさそうで、でもどこか安心感を与えるものだった。


 それからというもの、昼休みや仕事帰りに、ふとした拍子に顔を合わせることが増えていった。図書館のカウンター越しに話すようになり、彼が本に詳しいことや、昔は編集の仕事をしていたことなど、少しずつ浩一のことを知っていった。


 「由美さん、って名前、いいですね。春みたいな響きがある」

 ある日、そんなことを言われた。突然で、少し照れくさい言葉だったが、不思議と嫌ではなかった。むしろ、心の奥にそっと灯りがともるような、あたたかな気持ちがした。


 初めて二人で出かけたのは、図書館の裏手にある古い喫茶店だった。彼はホットコーヒーを頼み、由美はカフェオレにした。窓から差し込む午後の光の中で、他愛もない話をしながら、気がつけば時間が経っていた。


 「こんなふうに、毎日話せたらいいですね」

 帰り道、浩一がぽつりとそう言った。その言葉に特別な意味を感じながら、由美は何も言わず、ただ小さくうなずいた。


 それが始まりだった。不器用で、でも確かにまっすぐな気持ち。

 それから年月を重ね、二人は結婚し、子どもにも恵まれた。にぎやかな日々、喧嘩もしたし、笑いもした。家族としての時間は、目まぐるしく過ぎていった。


 そして今、子どもたちは家を出て、また二人きりの生活が戻ってきた。団地の一角、静かなこの家で、由美と浩一は老いと向き合いながら暮らしている。


 あの春の日の記憶は、もう遠く霞んでいる。けれど、桜が咲く頃になると、ふと胸の奥であの言葉がよみがえる。


 —— こんなふうに、毎日話せたらいいですね。


 今もそれは、続いている。たとえ、終わりが近づいていたとしても。

評価お願いします!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ