第一章 声のぬくもり
出会ったのは春のことだった。桜が咲き始めた頃、由美は市役所で臨時職員として働いていた。毎朝決まった時間に通勤し、淡々と書類を処理する日々の中で、特別なことなど何もなかった。そんな生活の中、浩一との出会いは、まるで静かな水面に落ちた一滴のしずくのように、何かを静かに変えていった。
浩一は市役所に併設された市立図書館の職員だった。初めて話したのは、コピー機の使い方を尋ねた時だったと思う。彼は少し驚いたようにこちらを見て、それから小さく笑って、「こっちですよ」と丁寧に案内してくれた。その笑顔は少し照れくさそうで、でもどこか安心感を与えるものだった。
それからというもの、昼休みや仕事帰りに、ふとした拍子に顔を合わせることが増えていった。図書館のカウンター越しに話すようになり、彼が本に詳しいことや、昔は編集の仕事をしていたことなど、少しずつ浩一のことを知っていった。
「由美さん、って名前、いいですね。春みたいな響きがある」
ある日、そんなことを言われた。突然で、少し照れくさい言葉だったが、不思議と嫌ではなかった。むしろ、心の奥にそっと灯りがともるような、あたたかな気持ちがした。
初めて二人で出かけたのは、図書館の裏手にある古い喫茶店だった。彼はホットコーヒーを頼み、由美はカフェオレにした。窓から差し込む午後の光の中で、他愛もない話をしながら、気がつけば時間が経っていた。
「こんなふうに、毎日話せたらいいですね」
帰り道、浩一がぽつりとそう言った。その言葉に特別な意味を感じながら、由美は何も言わず、ただ小さくうなずいた。
それが始まりだった。不器用で、でも確かにまっすぐな気持ち。
それから年月を重ね、二人は結婚し、子どもにも恵まれた。にぎやかな日々、喧嘩もしたし、笑いもした。家族としての時間は、目まぐるしく過ぎていった。
そして今、子どもたちは家を出て、また二人きりの生活が戻ってきた。団地の一角、静かなこの家で、由美と浩一は老いと向き合いながら暮らしている。
あの春の日の記憶は、もう遠く霞んでいる。けれど、桜が咲く頃になると、ふと胸の奥であの言葉がよみがえる。
—— こんなふうに、毎日話せたらいいですね。
今もそれは、続いている。たとえ、終わりが近づいていたとしても。
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