1-8
あの日、彼女は、手を伸ばしてくれた。
血にまみれ、絶望と憎悪しか残らなかった彼に、それでも、ひとつだけ残されたものを差し出してくれた。
その手は小さく、温かく、全てを包み込むようだった。
『生きて』
それは、何よりも重い言葉だった。
星々よりも重く、空気よりも軽やかなそれを、たったひとつの意味として抱え続けた。
胸の奥深くに埋め込まれた宝石のように。
そして今、その言葉が、全身を駆け巡る。
血管を流れる血液のように、肺に満ちる空気のように。
『生きて』
『生きて』
『生きて』
立ちあがれ
呼吸が、ひとつ深くなる。
肺が膨らみ、新鮮な空気が全身に巡る。
砂を踏む足が、静かに前に出る。
影が長く伸び、陽が鮮やかに照りつける。
絶望の中で、唯一、彼に生きることを許した人。彼の存在の理由。
──それを奪ったのは誰だ。
この帝国だ。
アウグストゥスだ。
そして、今ここにいる民衆だ。
歓声を上げ、血に酔いしれる者たち。
少年は、そこで初めて前に出た。
まるで自分の意思で動くことを決めたかのように。
一歩。さらに一歩。
白獅子の刃が彼の肩を貫く。
鋼鉄が肉を裂き、骨にぶつかる鈍い音がする。
だが、動きは止まらない。
目の前の獣が剣を引き抜こうとする。
その瞬間、少年の手が動いた。
風を切り裂くような音が響く。
白獅子は気づかない。
いや、気づいているはずだった。
本能が危険を察知し、警鐘を鳴らしている。
だが、見たことがないものを前にしたとき、人間は本能を無視することがある。
恐怖が判断を鈍らせる。
もう、何も聞こえない。
耳の中で波が打ち寄せたように。歓声も、白獅子の唸りも、ただ、彼女の声だけが耳の奥にある。
水晶のような透明さで響き続ける。
その声とともに、少年は剣を振り上げた。
それは鋼ではない。
生きた蛇のように、彼の手の延長として動く。
復讐でもない。
単なる怒りの発露ではなく。
彼の「生」のすべてだった。
存在の全てを込めた一撃。
白獅子が本能で少年の身体から剣を引いた。
筋肉が反射的に動き、砂が舞う。
だが、遅い。
時間そのものが彼の味方をしているかのように。
刃が静かに、だが確実に、獣の喉元に吸い込まれるように伸びた。
小さく、鋭く。
白獅子の喉元に突きつけられた刃が、一筋の血を描く。
「……まだ、生きているのか」
その声は呟きにすぎなかった。
風に消されそうな、弱々しいもの。
だが、届いた。
音波となって空気を震わせ、彼の耳に届いた。
白獅子の目に、恐怖が宿る。
瞳孔が開き、筋肉が固まる。
その一瞬の隙を、少年は逃さない。
次の一撃は、冷たく、深く、喉を穿つ。氷のように冷たい刃が、獣の命脈を断ち切る。
──血飛沫。
風が運んだ赤が、少年の白い頬を濡らす。
温かい液体が肌に触れ、ゆっくりと流れ落ちていく。
彼は瞬きもせず、まるで洗礼を受けるようにそれを受け止めた。
獅子の目が驚愕に見開かれ、崩れ落ちる肉体が砂に吸い込まれていく。
重力が勝利を収めるように。
静かだった。
まるで、自分の命を削ることにさえ無頓着な獣のように。
砂塵が静かに舞い、少年は、そのまま剣を下ろした。
血が滴り落ち、砂に吸収されていく。
肩口には深く斬りつけられた跡がある。
腕の肉も裂け、血がしぶいている。
そのすべてがゆっくりと閉じていく。
割かれた肉が、まるで時間を巻き戻すかのように再び結びつき、血は止まり、傷跡すら残さない。
生命の奇跡、あるいは呪いとも言える現象。
「生きて」
奇跡を纏う肉体に、たったひとつ、彼女の声が残響していた。
耳の奥で、心臓の鼓動と共に響き続ける命令。
雪崩のように歓声が降り注いだ。
「二六一!勝者だ!」
広大な闘技場に響き渡る声は、一つの波となって押し寄せる。
千の口が一斉に開き、万の心臓が同時に高鳴る。
その熱狂はもはや個人の感情ではなく、一つの生命体と化していた。
砂と血が混じり合った赤褐色の地面に、一つの人影が静かに佇んでいた。
その周囲には、つい先ほどまで生きていた相手の肉体が横たわっている。
かつては人間だったその存在から、今や命は逃げ去り、ただの物質と化していた。
少年は振り向く。
遠く、王の座。
帝国の象徴の杖を掲げる、皇帝アウグストゥス。
王の笑みは深まった。