1-7
あの時、アウグストゥスはそれを掲げていた。
まるで、民衆の歓喜に応えるように。
遥か高みにある玉座。
皇帝アウグストゥスの瞳が、彼を見下ろしている。
その眼差しの奥にあるのは虚無か、冷徹か。少年には判別できなかった
白獅子が、息を呑んだ。
「……あれが目的か」
返答はない。
だがその沈黙が、何より雄弁だった。
剣先が、わずかに引かれる。
白獅子は、初めて疑念を抱いた。
——何かがおかしい、と。
これは技ではない。
力でもない。
目の前に立つ少年の、この無防備さには意味がある。
剣を恐れず、傷を受け入れる覚悟ではない。
——それ以前に、彼は痛みに無関心だった。
「何者なんだ……」
低く呟いた声は、獣の唸りのように重かった。
踏み込んだ左足が、砂塵を巻き上げ次の一撃が放たれる。
鉄の如き筋肉が波打ち、弧を描いた剣が少年の胴を薙ぐ
しかし、少年はまたも迎えた。
避けることもなく、逸らすこともなく、ただ傷だらけの剣を掲げる。
鈍く重い音。
その衝撃に、少年の体が吹き飛ばされる。
白砂を削り、地に叩きつけられ、砂塵が舞う。
だが、すぐに立ち上がった。
細い身体にひび割れた陶器のように血が流れている。口からも血が零れ落ちる。
目だけが静かだった。
どこまでも深く、底の見えない水底のような瞳。
漆黒の闇が渦巻く、生命の光が消え去った窓のようだった。
白獅子は、息を詰める。
その胸の奥で心臓が躍動し、血液が耳元で轟音を立てている。
──あの目は。
死を恐れぬ者の目ではない。
死を望む者の目でもない。
何も感じていない。
感情の欠片すら宿さない、空洞の向こう側を覗くような目だった。
——【虚無】だ。
存在と不在の境界に立つものの眼差し。
「……化け物め」
砕けた宝石のように鋭利な言葉を吐き捨て、白獅子は再び走る。
その筋肉が砂を蹴り上げ、風を切り裂いた。
斬撃が雨のように降る。
太陽の光を受けて煌めく刃のひとつひとつが、少年の体を裂き、骨を砕く。
鈍い音と共に肉が裂け、血が砂にしみこんでいく。
しかし、少年は倒れない。
ただそこに立ち続ける。
いや、倒れる意味がないのだと、まるで告げるように。
重力そのものを拒絶するかのように。
「……なぜだ!」
白獅子の叫びが闘技場の熱気を貫いた。
その声は、恐怖と怒りが入り混じり、掠れていた。
民衆は歓声をあげている。
その熱狂は波となって渦巻き、闘技場を満たしていく。
「二六一!」
「不死の罪人!」
彩られた叫びは、祈りにも似ていた。
救いを求める者たちの切実な願いのように。
そして、その瞬間だった。
光景が、薄い布のように裂けた。
赤い。燃える大地。
焼けた肉の匂い。灰と煙の味が喉に絡みつく。
──聞こえた。
誰のものか、すぐにわかった。
肌の下を流れる血液が反応し、心臓が激しく鼓動する。
あの声だ。
夜明け前の静けさのように柔らかく、冬の終わりに差す陽だまりのように温かい。
溶けていく氷のように、澄んでいた。
『……大丈夫だから』
その声が、彼を呼び戻す。
闇の向こう側から手を伸ばすように。
赤黒い視界の奥で、しぶとく残った意識が、その一滴をすくい上げる。
乾いた大地に落ちた一滴の水のように、貴重なものとして。
痛みは、とうに限界を超えていた。
神経が断線し、感覚そのものが既に麻痺していた。
白獅子の剣が、彼の肉を裂き、骨を叩き、そのたびに血が砂に滴り落ちる。
熱い液体が肌を伝い、衣服を濡らしていく。
体は悲鳴を上げているはずだった。
だが、彼はそこに耳を傾けなかった。
その声だけに集中していた。
あの日、彼女は、手を伸ばしてくれた。
血にまみれ、絶望と憎悪しか残らなかった彼に、それでも、ひとつだけ残されたものを差し出してくれた。
その手は小さく、温かく、全てを包み込むようだった。