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少年は、何も言わなかった。
ただ、王の手にあるその杖を、まるで見定めるように見つめていた。
憎悪と共に、何か別の感情も混じっていた。それは懐かしさだろうか、あるいは哀しみか。
その目に宿る感情は、再び静けさを取り戻す。
まるで何事もなかったかのように。
だが確かに、そこには刹那の殺気があった。
それは闘技場の全ての人間が感じ取っていた。
息を呑み、心臓の鼓動を速め、冷や汗を流すほどの恐怖を覚える者もいた。
そして、その殺気に充てられた者たちは、誰も声を発しなかった。
それが、王の胎内で生きるための唯一の術だと誰もが知っていた。
声を上げれば、次は自分が砂の上に立つことになる。それは不文律であり、絶対の掟だった。
だが、玉座に座するアウグストゥスだけは、その目に微かに興味を灯していた。
まるで百戦目の少年が、やっと何者かになったかのように。
その無表情の顔に、かすかな期待の色が浮かんでいた。
それは他者には見えない、王自身だけが感じる感情だった。
陽光が白銀の覇杖に反射し、王の胎内全体を薄白く染めた。
まるで世界そのものが、一瞬だけ異界へと変容したかのように。
太鼓が、再び鳴り響く。
それは、死者を呼ぶ神託の音にも似ていた。
低く、重く、心臓を震わせる音。
祝祭と死の音楽が、少年を包み込み、戦いの刻を告げる。
その音色は、百戦目を迎える特別な意味を帯びていた。
王の杖が、ゆっくりと掲げられる。
その動きは、まるで帝国そのものが意思を持ち、この場の全てを支配していると告げるようだった。
杖の先端に取り付けられた黄金の輪が、太陽の光を受けて輝き、一瞬だけ闘技場全体が金色に染まった。
群衆はその合図を待ち、固唾を呑む。
賭けをした者たちは勝敗に思いを馳せ、ただの見物人は血に飢えた目で中央を見つめた。
権力者たちは、これが単なる闘技場の一戦ではなく、帝国の歴史に残る瞬間になるかもしれないことを、直感的に感じ取っていた。
静寂が、広場を満たしていた。
それは一瞬に過ぎなかったが、誰もがその瞬間、空気が変わったことを知った。
世界が息を止めた瞬間。
「始めよ」
アウグストゥスが低く呟いた声は、ただひとことだった。
だがその音は、まるで雷鳴のように響き、地を震わせた。
どうしてあれほど小さな声が、ここまで広い闘技場の隅々まで届くのか。
それは誰も説明できなかった。
ただ、王の声には人知を超えた何かがあるとしか言いようがなかった。
皇帝の言葉は、神の勅命であり、誰も逆らえない。
その瞬間、鋼鉄の角笛が鳴り渡る。
重々しい音が円形闘技場の壁に反響し、群衆が熱狂に染まる。
抑えていた感情が一気に解放され、声と共に溢れ出した。
叫びが、渦巻く。
「殺せ!」
「倒せ!」
「ここで死ね!」
血を求める声が、空高く舞い上がる。
それは蠱惑的な旋律を奏で、闘技場を一つの生き物のように震わせた。
誰もが笑っている。
誰もが叫んでいる。
それは歓喜のようでありながら、どこか、断末魔の叫びにも似ていた。
まるで——あの時と同じだった。
あの広場。
あの十字架。
あの杭、滴る血、乾いた地面に焼きついた影。
そのすべてが、一瞬にして少年の脳裏を焼いた。
強烈な記憶の閃光に、視界がかすむ。
誰の声かは判然としない。
無数の人々の叫びが渦を巻き、まるで地の底から唸る獣のうなり声のように混じり合い、空気を震わせていた。
熱気が肌を焼く。
重苦しい狂騒が、闘技場を支配していた。
それでも少年は動かない。
ただ、真正面に立つ一人の男を見つめていた。
対するは、かつて“白獅子”と呼ばれた男。
帝国に抵抗し、百の戦場を駆け抜けたという噂。
敗れ、囚われ、この闘技場に送られた――それでも、その剣はなお鋭く、帝国市民たちが「最期に相応しい相手」と口にするほどの男だった。
その容貌は威圧的で、白髪の混じった鬣のような髪は風に揺れ、鍛え抜かれた筋肉には数え切れぬ戦傷が刻まれていた。
その姿は、まさに死と隣り合わせの修羅だった。
彼の手にある剣は、ただの鉄ではない。
まるで古の神話から抜け出したかのような、異質な質量と存在感を放っていた。
一歩ごとに土煙が舞い、地面がかすかに震える。
白獅子が、鋭く息を吐き、突如として距離を詰める。
だが、少年は動かなかった。
白獅子が迫ってきても、その細い白い腕は剣を握ったまま指一本動かさなかった。
巨躯から繰り出された突きは、雷光のように速く、重い空気を裂いて直進する。
観衆の誰もが息を呑んだ。
しかし、少年はそれを避けようともしなかった。
肩を裂いた鋭い一撃が、赤い弧を描いて血を飛ばす。
熱が皮膚を焼き、視界がゆらぐ。
「……生きてはいるようだな」
耳に届いたその言葉は、刃よりも鋭く心臓を貫いた。
それはただの確認ではなく、過去の記憶を抉る問いだった。
胸の奥で何かが疼き、破裂しそうな痛みが走った。
「——ッ」
声にならぬ呻きが漏れる。
その背後では、観衆が歓声を上げていた。
だがそれは勝者への賛辞ではなく、肉が裂ける音に酔いしれる、野性と化した群衆の咆哮だった。
あの時と同じだ、と少年は思う。
帝国は変わらない。
誰かの血と死だけが、彼らの歓喜の源なのだ。
「……死にたいのか」
白獅子が低く呻く。
問いかけは静かだったが、言葉の奥にあるものは剣よりも鋭い。
男は再び足を踏み出し、砂を蹴り、風を裂いた。
少年は、ただ剣を構えた。
その目は虚ろだった。
あの杖を思い出す。
あの日、掲げられた黄金の杖。それは「恩赦」を与える王の象徴であり、同時に「死を宣告する」絶対の権力だった。
あの時、アウグストゥスはそれを掲げていた。
まるで、民衆の歓喜に応えるように。
遥か高みにある玉座。皇帝アウグストゥスの瞳が、彼を見下ろしている。
その眼差しの奥にあるのは虚無か、冷徹か。少年には判別できなかった