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1-6

少年は、何も言わなかった。

ただ、王の手にあるその杖を、まるで見定めるように見つめていた。

憎悪と共に、何か別の感情も混じっていた。それは懐かしさだろうか、あるいは哀しみか。


その目に宿る感情は、再び静けさを取り戻す。

まるで何事もなかったかのように。


だが確かに、そこには刹那の殺気があった。

それは闘技場の全ての人間が感じ取っていた。


息を呑み、心臓の鼓動を速め、冷や汗を流すほどの恐怖を覚える者もいた。

そして、その殺気に充てられた者たちは、誰も声を発しなかった。


それが、王の胎内で生きるための唯一の術だと誰もが知っていた。

声を上げれば、次は自分が砂の上に立つことになる。それは不文律であり、絶対の掟だった。


だが、玉座に座するアウグストゥスだけは、その目に微かに興味を灯していた。


まるで百戦目の少年が、やっと何者かになったかのように。


その無表情の顔に、かすかな期待の色が浮かんでいた。

それは他者には見えない、王自身だけが感じる感情だった。



陽光が白銀の覇杖に反射し、王の胎内全体を薄白く染めた。

まるで世界そのものが、一瞬だけ異界へと変容したかのように。


太鼓が、再び鳴り響く。

それは、死者を呼ぶ神託の音にも似ていた。


低く、重く、心臓を震わせる音。

祝祭と死の音楽が、少年を包み込み、戦いの刻を告げる。

その音色は、百戦目を迎える特別な意味を帯びていた。



王の杖が、ゆっくりと掲げられる。

その動きは、まるで帝国そのものが意思を持ち、この場の全てを支配していると告げるようだった。


杖の先端に取り付けられた黄金の輪が、太陽の光を受けて輝き、一瞬だけ闘技場全体が金色に染まった。

群衆はその合図を待ち、固唾を呑む。


賭けをした者たちは勝敗に思いを馳せ、ただの見物人は血に飢えた目で中央を見つめた。


権力者たちは、これが単なる闘技場の一戦ではなく、帝国の歴史に残る瞬間になるかもしれないことを、直感的に感じ取っていた。


静寂が、広場を満たしていた。

それは一瞬に過ぎなかったが、誰もがその瞬間、空気が変わったことを知った。



世界が息を止めた瞬間。


「始めよ」


アウグストゥスが低く呟いた声は、ただひとことだった。

だがその音は、まるで雷鳴のように響き、地を震わせた。


どうしてあれほど小さな声が、ここまで広い闘技場の隅々まで届くのか。

それは誰も説明できなかった。


ただ、王の声には人知を超えた何かがあるとしか言いようがなかった。

皇帝の言葉は、神の勅命であり、誰も逆らえない。


その瞬間、鋼鉄の角笛が鳴り渡る。

重々しい音が円形闘技場の壁に反響し、群衆が熱狂に染まる。



抑えていた感情が一気に解放され、声と共に溢れ出した。

叫びが、渦巻く。


「殺せ!」

「倒せ!」

「ここで死ね!」


血を求める声が、空高く舞い上がる。

それは蠱惑的な旋律を奏で、闘技場を一つの生き物のように震わせた。


誰もが笑っている。

誰もが叫んでいる。


それは歓喜のようでありながら、どこか、断末魔の叫びにも似ていた。



まるで——あの時と同じだった。


あの広場。

あの十字架。

あの杭、滴る血、乾いた地面に焼きついた影。


そのすべてが、一瞬にして少年の脳裏を焼いた。

強烈な記憶の閃光に、視界がかすむ。


誰の声かは判然としない。

無数の人々の叫びが渦を巻き、まるで地の底から唸る獣のうなり声のように混じり合い、空気を震わせていた。


熱気が肌を焼く。

重苦しい狂騒が、闘技場を支配していた。



それでも少年は動かない。

ただ、真正面に立つ一人の男を見つめていた。


対するは、かつて“白獅子”と呼ばれた男。

帝国に抵抗し、百の戦場を駆け抜けたという噂。


敗れ、囚われ、この闘技場に送られた――それでも、その剣はなお鋭く、帝国市民たちが「最期に相応しい相手」と口にするほどの男だった。



その容貌は威圧的で、白髪の混じった鬣のような髪は風に揺れ、鍛え抜かれた筋肉には数え切れぬ戦傷が刻まれていた。


その姿は、まさに死と隣り合わせの修羅だった。


彼の手にある剣は、ただの鉄ではない。

まるで古の神話から抜け出したかのような、異質な質量と存在感を放っていた。



一歩ごとに土煙が舞い、地面がかすかに震える。


白獅子が、鋭く息を吐き、突如として距離を詰める。


だが、少年は動かなかった。

白獅子が迫ってきても、その細い白い腕は剣を握ったまま指一本動かさなかった。



巨躯から繰り出された突きは、雷光のように速く、重い空気を裂いて直進する。


観衆の誰もが息を呑んだ。

しかし、少年はそれを避けようともしなかった。


肩を裂いた鋭い一撃が、赤い弧を描いて血を飛ばす。

熱が皮膚を焼き、視界がゆらぐ。



「……生きてはいるようだな」


耳に届いたその言葉は、刃よりも鋭く心臓を貫いた。

それはただの確認ではなく、過去の記憶を抉る問いだった。


胸の奥で何かが疼き、破裂しそうな痛みが走った。


「——ッ」


声にならぬ呻きが漏れる。


その背後では、観衆が歓声を上げていた。

だがそれは勝者への賛辞ではなく、肉が裂ける音に酔いしれる、野性と化した群衆の咆哮だった。



あの時と同じだ、と少年は思う。

帝国は変わらない。

誰かの血と死だけが、彼らの歓喜の源なのだ。



「……死にたいのか」


白獅子が低く呻く。

問いかけは静かだったが、言葉の奥にあるものは剣よりも鋭い。


男は再び足を踏み出し、砂を蹴り、風を裂いた。


少年は、ただ剣を構えた。

その目は虚ろだった。


あの杖を思い出す。

あの日、掲げられた黄金の杖。それは「恩赦」を与える王の象徴であり、同時に「死を宣告する」絶対の権力だった。

 

あの時、アウグストゥスはそれを掲げていた。

まるで、民衆の歓喜に応えるように。



遥か高みにある玉座。皇帝アウグストゥスの瞳が、彼を見下ろしている。


その眼差しの奥にあるのは虚無か、冷徹か。少年には判別できなかった





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