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その視線は、さらに高くへと昇っていく。
闘技場を取り巻く観客席。
色とりどりの衣をまとい、金貨を賭け、歓声を上げる帝国市民の波。
彼らの目には、残酷な期待と狂気が宿っていた。
生死を賭けた戦いを、ただの娯楽として楽しむ彼らの姿に、少年の心は何も感じなかった。
その更に上——玉座の間へと、静かに顔を向けた。
階段を幾重にも登った高座に、「それ」はいた。
アルトリウス帝国皇帝アウグストゥス。
帝国の太陽にして、死を束ねる者。
しかし、そこに座す存在は、人の形をしているだけの「何か」に近かった。
紫の外套が、燦然と輝く陽光に照らされて風に揺れている。
黄金の刺繍が施された衣装は、まるで太陽の欠片のように眩しく光を放っていた。
だが、少年はそれを見ていなかった。
彼の目が捉えたのは、男の手にある一本の杖だった。
帝国の象徴たるその杖は、白銀に鍛えられ、その頂には王権の証である黄金の輪が据えられている。
杖の表面には細かな刻印が施され、それらは古代の文字や呪術的な記号のようにも見えた。
時に淡く発光するその杖は、単なる装飾品ではないことを暗示していた。
血に濡れたその国を束ね、死者の魂さえ従わせると謳われる「覇杖」だ。
少年の足が、微かに止まる。白磁のような顔に、僅かな影が差した。
——それは、怒りとも、憎しみとも呼べるもの。
これまでの百戦、一度も見せたことのない感情だった。
その瞬間、彼の内側で何かが壊れ、同時に何かが目覚めたかのようだった。
遠いはずのその姿が、まるですぐそこにあるように少年の目にははっきりと映った。
距離も、時間も、空間さえも歪んだかのように、王の姿だけが鮮明に見えた。
三年間、何も感じなかったはずの心に、鋭い痛みが走る。
それは記憶か、それとも新たな感覚か。
胸に刺さったまま腐らせた棘が、ゆっくりと抉れた。
——殺す。
その衝動が内から溢れた。
魂の奥底から湧き上がる殺意は、ほとんど実体を持ったかのように彼の全身を満たした。
それでも、少年の表情は変わらなかった。
ただ、歩みを一瞬止め、その黒の瞳が静かに王を貫いた。
それは、どこまでも静謐で、氷が深海で沈むように鈍く、冷たく、だが確かに人の命を蝕む「敵意」そのものだった。
その目は闇そのものだった。
底なしの井戸のような暗黒。
そこには何もない——いや、全てがあった。
鼓動が静止し、空気が凍る。
風は止まり、音は消え、ただ、ひとつの殺気が放たれた。
静かに、しかし、鮮烈に。深い夜の闇に刺す稲妻のように。
王と少年の間には、百歩も二百歩もある。
地上から高座までの距離は、声すら届かないはずだった。
石段を重ね、壁を築き、距離を取ることで、王は常に民から隔てられていた。
それは安全のためでもあり、神聖さを保つためでもあった。
——それでも、届いた。
「……ッ!」
王の玉座、その右手に控えていた男の瞳孔が揺れた。
黒漆の甲冑に身を包み、肩には黄金の獅子をあしらった紋章が浮かぶ。
その鎧は単なる防具というより、芸術品と呼ぶべき美しさを持っていた。
男は思考よりも先に、手が、無意識に柄にかかった。
剣が半ば抜かれ、光を受けた刃が、鋭く王杖に反射する。
この反射は、偶然だったのかもしれないが、まるで杖が男の行動に応えたかのようだった。
だが、抜ききれない。
王はそれを許さなかった。
鋭い音を立て、鞘から刃が顔を覗かせる。
あまりに無駄のない動き。
目は少年を睨み据え、今にも飛びかからんばかりの気迫。
それは帝国の中でも随一と謳われる剣豪の反応だった。
王の影と呼ばれ、その命を守ることだけを生きがいとする男だった。
アウグストゥスは微動だにせず、王杖をひとつ傾けた。
それだけで、側近の手は静かに剣を納めた。
痙攣するような指の震えが、かすかに甲冑を鳴らす。
その音は、恐怖の証だった。
百歩先からの殺気に反応せざるを得なかった彼自身への、恐怖。
王は笑わなかった。
まるで、そこに命の機微など存在しないかのように、
砂漠の果てに沈む黒い太陽のように、ただ在った。
その目は、なにものにも動じない絶対の自信に満ちていた。
まるで自分こそが世界の中心であり、法則そのものであるかのような確信。
少年は、何も言わなかった。
ただ、王の手にあるその杖を、まるで見定めるように見つめていた。
憎悪と共に、何か別の感情も混じっていた。
それは懐かしさだろうか、あるいは哀しみか。