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1-3



それは儀式のはじまり。

扉が開かれるとき、その一歩は勝利か、あるいは終焉へと続いている。


彼はそれを知っていた。

九十九の魂が彼の手によって断たれ、その重みを背負って立っている。

百番目の死が、誰のものになるのか。


それさえも、彼には関心がないようだった。


重々しい鉄扉が、軋んだ音を立てて左右に割れる。

金属のきしみは地底の獣の咆哮のようであり、幾人もの兵士がその重みに耐えながら扉を開く。


その隙間から溢れ出す光は、まるで千の剣となって、地下の陰鬱を切り裂いた。

眩しさが彼を包み込み、一瞬、その姿を消し去るかのようだった。


だが光が馴染むと、彼の輪郭はより鮮明に浮かび上がる。

一歩、少年がその閾を越える。


砂と血の混じった赤土の上に、彼の素足が触れる。

熱い。それは遠い記憶を呼び覚ますような感覚だった。


彼は微かに顔を上げ、初めてその場所全体を見渡した。


白い。その肌は、今までこの場に立った者たちの誰とも異なっていた。

焼け焦げた褐色でもなく、傷痕に覆われた荒れ地でもない。


仄かに青を帯びたような、透ける白さ。

やがてそれは、砂塵と血飛沫に染まる舞台へと足を踏み入れていく。



彼の姿は、闘技場全体の中で異質な存在感を放っていた。


群衆の声が、波濤のように押し寄せた。

地鳴りにも似たその喧噪は、鋼鉄の鎧を着た兵の行進よりも重く、戦場を駆ける軍馬の嘶きよりも荒々しい。


観客席は人々で埋め尽くされ、彩り豊かな衣装や旗が風に揺れる。

貴族から庶民まで、老若男女を問わず、帝国の民たちはこの瞬間を待ち望んでいた。


千人、万の眼が、一人の少年の影を飲み込む。

それは名もなき少年への賛辞ではなく、「二六一」という番号を持つ闘士への期待と恐怖だった。


彼らはこの少年が九十九の命を奪い、今日、記録を塗り替えようとしていることを知っていた。


だが、少年は足を止めなかった。


静かに、規則正しく。

まるでこの光景に何の意味も見出さないかのように。


彼の歩みは軽く、砂の上に残る足跡さえも浅かった。



まるで彼の存在そのものが、この世界の規則に従っていないかのように。


手首を繋いでいた鉄の枷はすでに解かれていた。

しかし、その細い両腕は不自然なほど動かず、体の脇に下ろされたままだった。


短剣は腰に下げられ、革の盾は左腕に軽く巻かれている。

その装いは質素だが、彼の姿には奇妙な威厳があった。


呼吸は乱れない。

その胸が上下する様子さえ、どこか儚く、現実から乖離しているように見えた。


彼は闘技場の中央へと歩みを進め、一点を見つめるように立ち尽くした。


観客席の最上段、深紅と黄金に彩られた王座の間。


そこには、皇帝アウグストゥスが鎮座していた。


彼の存在感は闘技場全体を支配し、太陽の光さえも彼のために輝いているかのようだった。

額には金の月桂冠が輝き、指には帝国の印章が刻まれた指輪が光る。


紫の外套は陽光を反射し、まるで燃え盛る焔のように輝く。

その下には金糸で織られた長衣が重なり、天と地を繋ぐ者としての威厳を表していた。


その視線は、悠然と、しかし冷徹に闘技場の中心を捉えていた。

百年の歴史を持つこの闘技場で、百戦目を迎える闘士を、皇帝自らが見届けるという稀有な光景。


それは帝国の歴史に刻まれる瞬間だった。


隣には、高官たちが整然と並び、獅子の頭を象った銀の仮面をかぶる元老たちが、何事か小声で囁き合う。

彼らの存在が闘技場に格式をもたらし、この日の重要性を際立たせていた。



この闘技場——「王の胎内」と呼ばれる円環は、帝国の繁栄と力を、民草へ誇示するために作られた。


その巨大な石造りの円環は、まさに命の循環を象徴していた。


ここで死ぬ者は、国家への生贄であり、生き残る者は帝国の奇跡である。

そしてその奇跡は、皇帝アウグストゥスの慈悲によってのみ授けられると万人は信じて疑わなかった。


帝国の法と秩序、その根底には死と再生の循環があった。



「アウグストゥス陛下のご恩寵は絶大なり!」


司祭が高らかに叫ぶ。

彼の声は闘技場全体に響き渡り、銀色の司祭服が太陽の下で眩いばかりに輝いていた。


彼の手には神聖な杖が握られ、それを高く掲げる。

それに応え、万を超える民衆が右拳を掲げ、咆哮した。


「アウグストゥス!」

「アウグストゥス!」

「アウグストゥス!」


三度の呼びかけは、神々への祈りを象徴するものだった。

彼らの信仰はすでに神から皇帝へと移り、絶対的な忠誠を誓っていた。



——そして、少年は歩を止める。


闘技場の中央、硬く乾いた赤土の上。

影は短く、陽光は無慈悲にその輪郭を刻む。



白い肌が、血肉を拒むかのように輝いている。

彼は静かに立ち尽くし、皇帝のいる方向には目もくれなかった。



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