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残り一勝。
その一勝があれば、王より恩赦を受けこの地から解き放たれる。
名誉アルトリウス人として帝国市民に迎えられ、かつての罪もすべて帳消しとなる。
しかし、その解放を待つ者にしては、彼はあまりにも静かすぎた。
最後の闘いを控え、その心はまるで戦うことさえ忘れたかのようだった。
それとも、最初から何も望んでいなかったのかもしれない。
生きることも、死ぬことも、すでに等しく遠ざかっているのかもしれない。
鎖が、また微かに軋む。
それが彼にとって、この世界で唯一残された音だった。
まるで、死者がまだ生きていることをこの場所に告げ知らせるためだけに。
その名を持たぬ少年は、ただひとつの番号によってこの地に存在していた。
「二六一」
それが彼の名だった。
帝国の記録上、出生も血統も消し去られた者たちは、番号と、鎖と、剣の中にのみ存在を許される。
だが、その番号を誰が口にしたところで、少年が顔を上げることはなかった。
看守も、他の囚人たちも、それを知っていた。
「化け物だ」
「もうあれは人間じゃない」
そんな囁きが、地下の闇の中にいつも漂っている。
月に幾度か、ろくに準備もせず地上に駆り出され、それでも彼は負けなかった。
負けることもなく、勝利の雄叫びをあげることもない。
ただ静かに血に濡れた剣を下ろし、呼び出しに応じて戻るだけ。
それが、三年続いた。
幾度かの季節の巡り、幾百もの夜明けと日没、そして幾千もの命の終わりを、彼は静かに見届けてきた。
そして今、その勝利は九十九を数えている。
この闘技場「王の胎内」で、百戦を生き抜いた者は二人。
記録によれば、最後の一戦を勝ち抜き、名誉市民の座を得た者たちだ。
だが、その顔を覚えている者はいない。
名誉と解放を手にしたはずの二人の姿は、その後、どこにも現れなかった。
死んだのか、消されたのか、それとも本当に恩赦されたのか。
誰も知らない。いや、知ろうともしなかった。
だから誰もが言う。
「九十九勝目が、真の終わりだ」と。
「それでも」と、地下の囚人たちは言葉を継ぐ。
「二六一なら、あるいは」と。
誰にも分からない。
分からないからこそ、誰もがその姿から目を逸らし、あるいは怯え、あるいは祈る。
自分ではない誰かが、その呪いを背負い続けるように。
鉄の靴音が、長い廊下を打った。
低く響くその音に、誰もが息を殺す。
地下の囚人たちが耳を傾け、恐怖と緊張が波のように伝わる。
その先に続く扉のひとつが開き、固く閉ざされた鉄格子が引き上げられる。
金属が擦れる音は、まるで老いた獣の呻きのようだった。
「二六一」
無機質な声が、名を告げた。
鎖が、石の床を擦る音がした。
まるでそれは、自らが歩むことを石と鉄に許しを乞うかのような音だった。
だが少年は何も問わず、何も求めず、静かに立ち上がった。
白い肌は、薄暗い独房の中でもかすかに光を宿す。
松明の火が壁に映す影も、彼の肌を侵すことができないかのように。
その光沢は大理石のようでありながら、何かの命を帯びていた。
髪は黒く、長い睫毛の影が頬に落ちて、その表情は虚ろにも微笑にも見えた。
誰も、彼の目の中に何が映っているかを知らない。
あるいは彼自身でさえ、もはや見えていないのかもしれない。
鎖は重く、その歩みは遅い。
だが、誰も急かさない。彼が歩む道を看守たちは避け、兵士たちは目を伏せる。
彼らは知っていた——この少年に触れることは、死に触れることと同義だと。
何度も繰り返された儀式のように。
何かが壊れないように、何かが目覚めないように。
彼らは静かに歩を進める。
廊下には他の囚人たちの気配がある。
鉄格子の向こうから覗く目、壁に耳を押し当てる囚人たち。
誰もが息を殺し、彼の歩みに耳を澄ませている。
「最後の一戦だ」
誰かが小さく呟く。
それが少年に届いているのかは、誰にも分からなかった。
彼の意識は、すでにどこか遠い場所に向けられているようだった。
試合の前に、武具が用意される。
帝国が認めた闘士たる証として、最後の一戦を飾るための盾と剣だ。
通常なら最高級の武具が用意されるはずだった。
百戦を生き抜いた者への、帝国からの贈り物として。
だが、少年の前に置かれたものは、あまりにも質素だった。
余計な装飾はなく、ただの鋼でできた短剣と、腕に巻きつける革の盾。
その刃は古く、柄は幾度も交換された痕跡がある。
盾も同様に、無数の傷痕が刻まれていた。
これまでの九十九の戦いを生き抜いた証だった。
それでも、誰も文句を言う者はいない。
むしろ、それがふさわしいとすら思われていた。
「王の胎内」最後の勝者は誰にも祝福されることなく、ただ静かにその役目を終えるのだと。
華やかな鎧は必要なく、豪奢な武器も必要ない。
必要なのは、ただ一つの勝利だけ。
少年は短剣を取った。
冷たい鋼が、彼の手に馴染むように収まる。
まるで自己の一部として彼はそれを握りしめたが、その表情に変化はなかった。
それは彼にとって、単なる道具であり、生命を絶つための手段にすぎなかった。
鎖の重みはまだ手首に残る。
だが、それはもう必要のないものだった。
戦いの場に上れば、その命の行方はもはや誰の手にも預けられていない。
鎖の痕跡は彼の肌に赤く残り、それは彼の過去を刻む刻印のようだった。
闘技場の入り口。
その扉は厚く、重く、幾人もの力で動かすものだった。
扉の向こうは、石畳が灼けつくような陽光にさらされている。
細い隙間から光が漏れ、少年の足元に線を描く。
そこには歓声が満ち、地鳴りのような声が渦巻いていた。
それは、生者のための叫びではない。
死者を称え、死者を飾るための帝国市民たちの祝祭。
彼らは毎月、毎週、この場所に集い、他者の死に酔いしれる。
帝国の栄光を讃え、自らの生を確かめるための儀式として。
少年はその扉の前に立った。 目を閉じ、わずかに息を吸い込む。