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1-2


残り一勝。

その一勝があれば、王より恩赦を受けこの地から解き放たれる。

名誉アルトリウス人として帝国市民に迎えられ、かつての罪もすべて帳消しとなる。



しかし、その解放を待つ者にしては、彼はあまりにも静かすぎた。

最後の闘いを控え、その心はまるで戦うことさえ忘れたかのようだった。


それとも、最初から何も望んでいなかったのかもしれない。

生きることも、死ぬことも、すでに等しく遠ざかっているのかもしれない。


鎖が、また微かに軋む。

それが彼にとって、この世界で唯一残された音だった。


まるで、死者がまだ生きていることをこの場所に告げ知らせるためだけに。

その名を持たぬ少年は、ただひとつの番号によってこの地に存在していた。



「二六一」

それが彼の名だった。

 

帝国の記録上、出生も血統も消し去られた者たちは、番号と、鎖と、剣の中にのみ存在を許される。


だが、その番号を誰が口にしたところで、少年が顔を上げることはなかった。

看守も、他の囚人たちも、それを知っていた。


「化け物だ」

「もうあれは人間じゃない」


そんな囁きが、地下の闇の中にいつも漂っている。


月に幾度か、ろくに準備もせず地上に駆り出され、それでも彼は負けなかった。

負けることもなく、勝利の雄叫びをあげることもない。


ただ静かに血に濡れた剣を下ろし、呼び出しに応じて戻るだけ。

 

それが、三年続いた。

幾度かの季節の巡り、幾百もの夜明けと日没、そして幾千もの命の終わりを、彼は静かに見届けてきた。


そして今、その勝利は九十九を数えている。


この闘技場「王の胎内」で、百戦を生き抜いた者は二人。

記録によれば、最後の一戦を勝ち抜き、名誉市民の座を得た者たちだ。


だが、その顔を覚えている者はいない。


名誉と解放を手にしたはずの二人の姿は、その後、どこにも現れなかった。

死んだのか、消されたのか、それとも本当に恩赦されたのか。


誰も知らない。いや、知ろうともしなかった。


だから誰もが言う。

「九十九勝目が、真の終わりだ」と。


「それでも」と、地下の囚人たちは言葉を継ぐ。

「二六一なら、あるいは」と。


誰にも分からない。

分からないからこそ、誰もがその姿から目を逸らし、あるいは怯え、あるいは祈る。


自分ではない誰かが、その呪いを背負い続けるように。


鉄の靴音が、長い廊下を打った。

低く響くその音に、誰もが息を殺す。


地下の囚人たちが耳を傾け、恐怖と緊張が波のように伝わる。

その先に続く扉のひとつが開き、固く閉ざされた鉄格子が引き上げられる。


金属が擦れる音は、まるで老いた獣の呻きのようだった。



「二六一」


無機質な声が、名を告げた。

鎖が、石の床を擦る音がした。


まるでそれは、自らが歩むことを石と鉄に許しを乞うかのような音だった。

だが少年は何も問わず、何も求めず、静かに立ち上がった。




白い肌は、薄暗い独房の中でもかすかに光を宿す。

松明の火が壁に映す影も、彼の肌を侵すことができないかのように。


その光沢は大理石のようでありながら、何かの命を帯びていた。

髪は黒く、長い睫毛の影が頬に落ちて、その表情は虚ろにも微笑にも見えた。


誰も、彼の目の中に何が映っているかを知らない。

あるいは彼自身でさえ、もはや見えていないのかもしれない。


鎖は重く、その歩みは遅い。

だが、誰も急かさない。彼が歩む道を看守たちは避け、兵士たちは目を伏せる。


彼らは知っていた——この少年に触れることは、死に触れることと同義だと。


何度も繰り返された儀式のように。

何かが壊れないように、何かが目覚めないように。


彼らは静かに歩を進める。

廊下には他の囚人たちの気配がある。


鉄格子の向こうから覗く目、壁に耳を押し当てる囚人たち。

誰もが息を殺し、彼の歩みに耳を澄ませている。


「最後の一戦だ」


誰かが小さく呟く。

それが少年に届いているのかは、誰にも分からなかった。


彼の意識は、すでにどこか遠い場所に向けられているようだった。


試合の前に、武具が用意される。

帝国が認めた闘士たる証として、最後の一戦を飾るための盾と剣だ。


通常なら最高級の武具が用意されるはずだった。

百戦を生き抜いた者への、帝国からの贈り物として。


だが、少年の前に置かれたものは、あまりにも質素だった。

余計な装飾はなく、ただの鋼でできた短剣と、腕に巻きつける革の盾。


その刃は古く、柄は幾度も交換された痕跡がある。

盾も同様に、無数の傷痕が刻まれていた。


これまでの九十九の戦いを生き抜いた証だった。


それでも、誰も文句を言う者はいない。

むしろ、それがふさわしいとすら思われていた。


「王の胎内」最後の勝者は誰にも祝福されることなく、ただ静かにその役目を終えるのだと。

華やかな鎧は必要なく、豪奢な武器も必要ない。


必要なのは、ただ一つの勝利だけ。

少年は短剣を取った。


冷たい鋼が、彼の手に馴染むように収まる。

まるで自己の一部として彼はそれを握りしめたが、その表情に変化はなかった。


それは彼にとって、単なる道具であり、生命を絶つための手段にすぎなかった。


鎖の重みはまだ手首に残る。

だが、それはもう必要のないものだった。


戦いの場に上れば、その命の行方はもはや誰の手にも預けられていない。

鎖の痕跡は彼の肌に赤く残り、それは彼の過去を刻む刻印のようだった。


闘技場の入り口。

その扉は厚く、重く、幾人もの力で動かすものだった。


扉の向こうは、石畳が灼けつくような陽光にさらされている。

細い隙間から光が漏れ、少年の足元に線を描く。


そこには歓声が満ち、地鳴りのような声が渦巻いていた。


それは、生者のための叫びではない。

死者を称え、死者を飾るための帝国市民たちの祝祭。


彼らは毎月、毎週、この場所に集い、他者の死に酔いしれる。

帝国の栄光を讃え、自らの生を確かめるための儀式として。



少年はその扉の前に立った。 目を閉じ、わずかに息を吸い込む。



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