どこでも一緒(困惑)?
「ついて来ないでよ!本当に!会社には絶対来ちゃダメだからね!」
そう叫びながらマンションを飛び出した私は、足音を鳴らして駅に向かっていた。エレベーターに乗る時間すら惜しく、階段を駆け下りたのは正解だったのかどうか。心臓がバクバクしているのは、急いでいるせいだけではない。部屋の中に残してきた存在――彼、「堕天の殺戮者:キリアン・フランヴェルジュ・ブラッドレイ」が、未だに現実にいるという事実が、私の理性をどれだけ消耗させているか、誰にも理解できないだろう。
会社に行く。日常に戻る。それが今の私の唯一の目標だ。さっきの「感謝しろよ」発言で何とか冷静さを保てていたものの、あれ以上彼と同じ空間にいたら、精神が崩壊しかねない。それが現実なのか、それとも現実と錯覚した夢なのかはどうでもいい。少なくとも彼が「会社」に現れなければ、私はまだ自分を保てる気がする。会社だけは、会社だけは私の聖域であってほしい。
駅に着いた頃には、汗がじんわりと背中を伝っていた。朝の満員電車を覚悟していたけれど、なんとかギリギリで滑り込んだ電車は意外にも少し空いている。座れるかもしれない。これも一種の奇跡だろうか。少し気を緩めた私は、ドア付近の空席に腰を下ろした。
ふぅ、と深く息を吐き出す。この瞬間が好きだ。電車に乗るまでの慌ただしさから解放され、ほんの一瞬だけでも何も考えなくて済む時間。そう、たとえ部屋にあの「魔公爵」が現実離れした威圧感で存在していようと、電車に乗ってしまえば、さすがにもう追いかけては来られないはず。これは会社へ向かう普通の朝、普通の通勤時間。私の日常が戻ってくる。
そう、戻ってくる――はずだった。
ふと顔を上げた瞬間、目の前に立っている「存在」に気づいた。黒と銀の瞳。冷たく光るオッドアイが真っ直ぐに私を見つめている。さらさらとプラチナブロンドの髪が揺れていて背中には大きな漆黒の翼、そしてもう一方には白く輝く天使の翼。その姿は、紛れもなく、あの「堕天の殺戮者」だった。
「……。」
息が止まる。いや、むしろ心臓が一瞬停止したかのようだった。頭の中で何度も否定の言葉が渦を巻く。違う、これは現実じゃない。現実であってはならない。なぜなら、電車の中にいる人々は、みんなスマホや新聞に夢中で、目の前に立つ異形の存在に誰一人として気づいていないからだ。
「……どうして?」
自分でも声が出たのかどうかわからない。唇が震えているのを感じる。目の前の彼は、相変わらず冷静な表情を崩さない。私を見下ろしながら、無言のままそこに立っている。電車が揺れるたびに、彼の翼の端が微かに動いているのが見える。これが現実?いや、現実だとしたら、私はもうどうすればいいのかわからない。
「お前に昔、言ったじゃないか。」
彼が低く言った。冷たく、それでいてどこか当然だと言わんばかりの口調で。
「俺は『妖狐』を見捨てるような真似はしない。どこへ行こうと一緒だ。」
――これは夢じゃない。
そう認めざるを得ない現実が、私の胸を締め付ける。電車の揺れ以上に、私の心は揺さぶられていた。