【制裁編】予感
「そろそろ帰るの?」
夜の静けさが部屋に満ちていた。私はベッドに腰掛けたまま、窓辺に立つキリアンに声をかける。彼は、黒と銀のオッドアイを細め、月の光を受けて輝く横顔をこちらに向けた。
「…ああ。」
その短い返事には、何の迷いもなかった。いつものように冷静な佇まいで、どこか幻想めいた空気をまとっている。ブラッド・ヘイヴンの領主としての威厳。いつ見ても圧倒される。
「ねえ……ちょっとだけ、話せる?」
「もちろんだ。」
キリアンは私を見つめたまま、少しだけ首を傾げる。私の声にかすかな震えが混じっていたことに気づいているのかもしれない。
「今日のこと……愛梛ちゃんを守れて本当に良かったと思う。……本当に。だけどね……こう、考えちゃうんだ。」
キリアンは言葉を挟まず、ただ私を見つめていた。その無言の眼差しが、余計に私の心の奥底を掘り起こしていく。
「このままじゃ、終わらないんじゃないかって……。あの子、逆恨みされるかもしれない。次はもっと酷いことをされるかもしれないって……」
吐き出した言葉は、まるで自分を刺すようだった。喉がひりついて、目の奥がじわりと熱を帯びる。
「……今回のことで、問題が解決したわけじゃない。確かに、私たちは『あの場』では助けられた。でも……この先、また愛梛ちゃんの心が、未来が……また踏みにじられるかもしれないって思うと……どうしようもなく怖いんだ。」
心臓がどくん、と強く脈打つ。言葉にした途端、私の中に眠っていた恐怖が姿を現した。
「……なのに、あの子たちは何も変わらないまま……無傷で、何もなかったような顔をして、笑いながら未来を進んでいくんだよ?それっておかしいよ……」
キリアンの瞳が微かに鋭さを増す。
「愛梛ちゃんは何も悪くないのに……何一つ悪いことなんてしていないのに……どうして、あの子の人生ばかりが、こんなにも簡単に傷つけられなきゃいけないの?」
彼女の小さな背中を思い出す。勇気を出して笑顔で帰っていったあの後ろ姿は、誇らしくも儚く見えた。だって、学校という場所は、たった一人で立ち向かうにはあまりに苛烈すぎる。
声が震えて、喉の奥が詰まった。私は目をぎゅっと閉じて、両手を膝の上で強く握りしめた。
「……お願い、キリアン。彼女を守ってあげてほしいの。あの子が安心して学校に行けるように……もう一度、普通の生活を取り戻せるように……どうか……力を貸してほしい。」
自分の声が涙混じりになっているのがわかる。情けない。でも、それ以上に、キリアンに伝えたい気持ちが私を突き動かしていた。
しばらくの間、部屋は静まり返った。ただ、夜の空気と私の微かな呼吸音が漂うだけだった。
「……妖狐。」
キリアンの声が低く響いた。その瞬間、私の肩に柔らかな重みがかかる。振り返ると、キリアンの手が私の肩を優しく包んでいた。
「任せろ。」
その声は穏やかでいて、どこまでも力強かった。短い言葉なのに、心の奥まで響いて、張り詰めていた不安が少しずつ解けていくのを感じる。
「お前の願いは、俺の誇りだ。」
キリアンの目には、確かな決意が宿っていた。
私は涙をこぼしながらも、なんとか微笑んでみせた。
「……ありがとう、キリアン。」
その言葉は、夜の静けさに溶けていったけれど、心の底からの本音だった。
部屋に戻ってきた静寂の中、彼の手の温もりだけが消えずに残っていた。




