洋子は昔、姫乃宮妖狐だった
「久しぶりだな、妖狐。」
彼の冷ややかな声が耳を打った瞬間、頭の奥で小さな音が弾けた。
妖狐?
その二文字が、私の脳内に鋭く突き刺さり、瞬く間に血液の流れが冷たくなるのを感じる。
あぁ、そうだった。彼がそう呼んでくるのは当然だ。なぜなら…なぜなら…
私が「妖狐姫」こと「姫乃宮妖狐」だったからだ。
そう、これは「ブラッド・ヘイブン」の設定。私は、高校時代の自分を「妖狐姫」に見立て、夢中で、恥じらいもなく、全身全霊をかけて「理想の美少女」を創り上げたのだ。
普段は青みがかった銀髪でミステリアスな雰囲気を湛え、首にチョーカーを付けた圧倒的なオーラを放つ天才系クールビューティー。財閥令嬢で周囲に媚びず、全てを見通す頭脳と全てを見透す冷静なスカイブルーの瞳の持ち主。
そして神通力を解き放てば、たちまち妖艶な巨乳の美女に姿を変え、白面金毛九尾狐の絶大な妖力を駆使して、日本の妖怪界を影で支配する謎めいた妖狐姫――それがかつての「私」だった。
いや、正確には「私であって私ではない存在」だった。
私がなりたかった「もうひとりの私」。現実ではどうしようもなく平凡で、孤独で、自分には何の取り柄もないと思い詰めていた私が、全ての願望と欲望を詰め込んで作り上げた、痛々しくも完璧な「妄想の自分」。そしてその「妖狐姫」に見初められ、運命の恋に堕ちたのが、彼――「堕天の殺戮者」キリアン・フランヴェルジュ・ブラッドレイ。
まさか、その設定が、現実に現れるとは思ってもいなかった。
一瞬、目の前が暗くなる。いや、暗くなってほしいと思ったのかもしれない。逃げ場のない羞恥と自己嫌悪が胸を締め付け、身体の力が抜ける。目の前に立つ「彼」の存在は、あまりにもリアルで、あまりにも嘲笑的に見える。
なぜ、今、それが実体を持って私の部屋に存在しているのか。
普通なら考えられない、あり得ない。
気づけば、膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。膝をつき、床に視線を落とす。息を整えようとしても、胸が震えてうまく呼吸ができない。
「妖狐姫」…かつての私は、そう自分を名乗って、何もない現実を妄想で埋め合わせていたのだ。所詮、空虚な理想の産物でしかなかった。今の私はその幻想とは程遠く、ただ疲れ果てた、友達も恋人もいない平凡なOLでしかない。
なのに、彼は「妖狐」と呼ぶ。
それが一体どれほど痛々しいものか、どれほど虚しく、どれほど今の自分を否定されているかのように感じるのか、彼にはわかるはずもない。