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好きだったものを手放す時

帰宅してドアを閉めた瞬間、現実が一気に押し寄せてきた。外の喧騒が遠ざかり、部屋の中に広がる静けさに包まれると、今まで張り詰めていた何かがふっと緩む。まるで膨らみすぎた風船の空気が抜けるように。


「あー……疲れた。」


靴を脱ぎながら、ぼそりと独り言をつぶやいた。足元のラグに転がるシンプルな白いスリッパ。その小さな物音が、静寂をさらに際立たせる。


リビングに目をやると、そこにはキリアンが静かに立っていた。コートを脱ぐでもなく、ただいつものように背筋を伸ばし、こちらを見ている。きっと、何も言わなくても彼なりに理解しているのだろう。それでも、私の中に言葉として出さなければいけない何かがあった。


「…キリアン、今日も助けてくれて、本当にありがとう。…ほら、これ。コーヒーゼリー買ってきたの。好きでしょ?」


袋の中からコーヒーゼリーを取り出し、キッチンのテーブルに置いた。緑色の蓋の三連パック。その可愛らしいパッケージが、何故か少しだけ目に優しく感じる。キリアンが小さく頷いた気がしたけれど、それを確認する余裕もなく、私はその場から逃げるように布団の中へ潜り込んだ。


真っ暗な視界。布団の中は世界と切り離されている場所だ。ここにいる間は何も考えず、何も感じずにいられる気がする。でも、そんな気がするだけで、実際には今日の出来事が脳内でリプレイを始めてしまう。


少女の顔が浮かぶ。ロリータ服のフリルが揺れる。彼女の小さな声が聞こえる。好きなものを語るその目は輝いていて、その輝きが胸に痛いほど刺さる。


――私も、昔はあんな風に「好き」を堂々と言えていたのだろうか?


頭の中で浮かぶ過去の自分。エクシーズの服を買って、部屋で鏡の前でくるくると回った日。あの頃は、可愛い服を着るだけで自分が少しだけ特別になれた気がしていた。レースやフリル、刺繍。可愛らしさの象徴のようなそれらを身に纏うことで、世界が少しだけ優しくなる気がしていた。


でも、気がつけばそれを「恥ずかしい」と感じるようになり、いつの間にかクローゼットの奥に仕舞い込んでしまった。


――好きだったものを手放す時、人はどれほどの自分を捨てるんだろう。


布団の中で握った拳がじんわりと汗ばんでいく。手の中にあるのは、かつての私が守りたかったもの。そして、その守りたかったものを笑われ、傷つくのが怖くて諦めた自分。


あの少女は、たぶんまだ戦っている。好きなものを好きと言う勇気を持っている。――私にはもう、その勇気はないのか。


目頭がじわりと熱くなる。布団越しに世界の輪郭がぼやけていくのがわかる。涙を流すなんて柄じゃない。でも、どうしようもなくこみ上げてくるものがあった。彼女の好きなものに対する姿を見て、思い出してしまったから。私も、あの頃の自分も、きっと彼女と同じだったから。


「好きなもの、か。」


ぽつりと呟いた声が布団の中で反響する。それは誰に向けた言葉でもなく、自分自身への問いだった。

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