かつて知る地獄
案内された別室は、空調が効きすぎているのか、少し肌寒かった。壁に沿って置かれた簡素な椅子の一つに腰を下ろすと、硬い座面が背中にまで冷たさを伝えてくる。
「この度は、本当にありがとうございました。」
そう言って頭を下げた母親の声は静かで、しかし、その裏には深い感情がこもっているのがわかった。
「いえ、私たちは――ただ、思ったことを言っただけです。」
私はそれ以上何も言えず、ただ母親の次の言葉を待った。
目の前に座る女性は、少し疲れたような顔をしていた。肌には薄くファンデーションが塗られているが、その下に隠しきれない影が浮かんでいる。おそらく、疲労と悩みが日々積み重なったものなのだろう。その目は、今にも涙を零しそうでありながら、それを懸命に堪えているように見えた。
「娘は……今、別の部屋で待っています。」
母親がぽつりと口を開いた。その声は、どこか硬かった。感情を押し殺しているのだろうか。それとも、ここで何かを語ることで、抑えていた何かが耐えきれなくなってしまうことを恐れているのだろうか。
「今日は、勇気を出して出かけてみようって、一緒に話し合って決めたんです。でも、こんなことになって……あの子には、傷ついてほしくなかったのに。」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。傷ついてほしくない、という母親の想い。それはきっと、あの子の苦しみを一番近くで見てきたからこその言葉なのだろう。
「娘は、クラス替えで仲の良かった友達と離れてしまったんです。」
ぽつりぽつりと語られる言葉。それは、単に状況を説明するものではなく、過去の記憶を掘り起こすような、辛い作業のように思えた。母親の手が小さく震えているのがわかる。その震えに気づいても、私は何も言えなかった。
「新しいクラスに馴染めなくて、それでも頑張ってたんです。でも……ダンスの時間に無理やり混ぜられたグループの子たちに、執拗に嫌がらせをされるようになりました。」
「執拗に」という言葉が、私の胸にじわじわと染み込んでくる。執拗。それは、嫌がらせが一度や二度ではなく、繰り返され、意図的で、止むことがないことを意味する。彼女がそれを語る声はどこまでも静かで、それがかえって重みを増していた。
「事あるごとに、聞こえるように悪口を言われて……あの子は、それに耐えきれなくなったんです。」
母親の声がか細く震える。
「学校に行けなくなって、それでも私は無理に行かせようとしました。だけど、ノートに……『学校に来ないでくれてありがとう』って書かれているのを見つけて。」
――学校に来ないでくれてありがとう。
その言葉が私の中で何度も反響した。それは、あまりにも残酷だった。文字として書かれたものが、どれほど深く人を傷つけるのか。それを知る者にしかわからない、鋭い刃のような言葉だった。
「……それが、娘の心を完全に折ったんです。」
母親の言葉は途切れた。それ以上続けることができないのだろう。その表情には痛みと後悔、そして自分ではどうにもならない現実への無力感が滲んでいた。
私は何も言えなかった。胸が苦しい。それは彼女の話に対するものだけではない。私自身の過去が、胸の奥で疼き始めたのだ。
――私も、何もできなかった。
かつて、私はただ黙って傷つくことを受け入れるしかなかった。言い返すこともできず、逃げることもできず、ただ耐えるだけの日々を送っていた。それを思い出すたび、胸の奥がざわざわと騒ぐ。目の前の母親が語る娘の姿に、自分の姿を重ねてしまうのだ。
私は今、目の前にいるこの人のように、自分の声を上げることができているだろうか。娘のために必死に語るこの母親のように、誰かを、何かを守るために動ける人間になれているのだろうか。
「……ごめんなさい。こんな話をしてしまって。」
謝る必要なんてない。そんなことはわかっているのに、言葉が出てこない。私はただ、黙って母親を見つめるしかなかった。胸の中には、怒りとも悲しみともつかない感情が渦巻いている。その感情をどう処理すればいいのか、まだ私にはわからなかった。




