友達を作れる側の人間
トラブルもなく仕事が終わる、というのは、それだけで十分すぎるくらい幸運なことだと思う。少なくとも、私にとっては。だから、会社のビルを出る時、自然と小さな安堵の息が漏れた。この世界で何一つ大きな変化が起きず、今日も無事に一日が終わった。それ以上、何を望む必要があるだろう。
けれど、そんな安堵の中に、微かな寂しさが混じっているのもまた事実だった。帰り道はいつも一人きりだ。それが当たり前だった。会社の同僚と飲みに行くこともなければ、寄り道をする友達もいない。私にとって「帰る」という行為は、孤独を再確認する作業のようなものだった。
だから、彼を呼び出す言葉を口にした時、自分が少しだけ浮かれていることに気づいてしまった。
「キリアン、来て。」
私が呟くと、彼はまるで待ち構えていたかのように現れた。いつものオッドアイが冷静に私を見つめている。それなのに、現れた瞬間の彼の視線に、どこか安心感のようなものが混ざっているような気がしたのは気のせいだろうか。
「仕事は順調だったか?」
キリアンの問いかけは簡潔だった。その声には冷たさも温かさもない。ただ、純粋に私の状況を知りたがっているように聞こえた。
「うん、まあね。特に何もなかったよ。」
そう答えながら、自然と彼の隣に歩み寄った。会社の近くのビル街を抜け、駅へと向かう道を並んで歩く。彼は星幽体ではなく普通に見える姿のまま現れている気がするけれど、なぜか周囲の人々は彼の存在に気づかないようだった。その理由を問い詰める気力もなく、私はただ彼と歩調を合わせる。
「静かに歩くのが得意なの?」
私が何気なく聞くと、彼は少しだけ微笑んだ。その表情はほんの一瞬で消えたけれど。
「得意という訳でないが、静けさは必要なものだ。特に、お前のような人間が安心して帰れるように。」
それは彼なりの優しさなのだろうか。いや、優しさという言葉では片付けられない何かがそこにある気がした。でも、私がその言葉にどう反応すべきか考える前に、彼が視線を空に向けた。
「だが、少しは話してもいいだろう。妖狐、本当に何もなかったのか?」
その言葉に、私は思わず立ち止まりそうになった。けれど、足を止める代わりに、歩幅を少し狭めるだけにした。キリアンの隣で、こうして普通に話すのが不思議なことのようで、心地よくもあったから。
「本当に何もないけど……あ、いや、こうして誰かと帰るの、久しぶりだなって思って。」
自分で言葉にしてみて、それがどれほど薄っぺらいものかに気づいた。けれど、口から出た言葉は戻らない。彼は私の言葉に興味を持ったのか、少しだけ首を傾げた。
「久しぶりとは、どれほどの時間のことだ?」
その問いに、私は自嘲気味に笑った。頭の中に浮かんだ答えが、自分でも呆れるくらいに長い時間だったからだ。
「……小学校以来かな。」
そう言いながら、私はふと昔のことを思い出した。小学校の頃、一緒に帰る友達がいた時期のこと。あの頃の私はまだ、「友達を作れる側の人間」だった。ランドセルを背負い、近所の友達と笑いながら帰った日々。それは、今となっては信じられないくらい遠い記憶だ。
「友達もいないし、恋人なんていたことないし……こんな風に誰かと歩くの、久しぶりだよ。」
それは紛れもなく事実だった。中学に入ってからは孤立し、高校ではさらに創作に逃げ、社会人になってからはただ生きるために働くだけの日々。誰かと帰るなんて、考えたこともなかった。だからこそ、今この瞬間が妙に新鮮に感じられる。
キリアンは私の言葉を聞きながら、しばらく沈黙していた。彼が何を考えているのか、私にはわからない。ただ、彼が私の言葉を軽く扱わないことだけはわかる。そのことが、少しだけ胸を温かくしてくれた。
「……お前が望むなら、これからもこうして帰ればいい。」
それは彼なりの提案なのか、単なる事実の指摘なのか、私には判断できなかった。でも、私はただ「ありがとう」と呟くことしかできなかった。彼が隣にいるこの帰り道が、久しぶりに「寂しくない」と思えたから。




