お風呂
「お風呂、入る?」
私は何気なくそう口にした。言葉を発した自分ですら、なぜそんな提案をしたのかよくわからなかった。ただ、目の前のキリアンに対して、何か普通の日常的なことを提供しようとした結果がこれだった。あまりに平凡な提案だ。だが、彼は私をじっと見つめ、少しだけ目を細めた。
「礼を言うが、遠慮しておこう。」
その答えに、私は一瞬首を傾げた。遠慮?別に「使わせてやる」という偉そうな態度で言ったわけでもないのに、どうしてそんなきっぱりと断るんだろう。
「え、なんで?遠慮とか、別にしなくていいよ。」
再び問いかけると、彼は静かに答えた。
「私の礼儀に反する。風呂とは、その場の主が最も安らげる空間であるべきだ。それを乱すのは好ましくない。」
彼は淡々とそう言ったが、その声には妙に説得力があった。確かに、お風呂は自分だけの空間――ある意味で「聖域」みたいなものかもしれない。でも、それを「乱す」なんて大げさな表現をされると、なんだか私の方が申し訳なくなる。
「……そうなの?じゃあ、どうするの?」
「ヘイヴンに戻る。」
そう言い残し、彼はふっと消えた。本当に消えた。まるで部屋の中に残された気配まで綺麗に拭い去ったかのように。
「……ヘイヴンね。」
その言葉を呟きながら、私はぼんやりと部屋を見渡した。ブラッド・ヘイヴン――キリアン達が住む異世界。血塗られた天獄。約束の地。それは私が作った設定そのものだ。彼にとって、あそこが最も安らげる空間なのだろう。そう考えると、彼の行動にも納得がいく。
私はため息をつき、洗面所に向かった。どうせなら自分が風呂に入ろうと思ったのだ。小さなマンションの狭い浴室は、彼の言う「安らげる空間」とは程遠いかもしれない。でも、それでも私にとっては十分だった。
湯船に浸かると、体がじんわりと温まっていく。狭いけれど、この空間は私にとっての「癒やしの場」だ。仕事で疲れた体を癒やすための、小さな避難所。熱い湯が肩に触れるたびに、緊張がほどけていくのを感じる。
「……ほんと、キリアンらしいよね。」
湯気の中で呟く。自分の「礼儀」にこだわり、マンションの浴室を拒否するなんて、どこまで徹底しているんだろう。私が高校時代に描いた「堕天の殺戮者」は、そういう厳格さを持っていた。でも、それが実際に目の前で展開されると、何とも言えない感慨が湧く。
キリアンらしい。それがどんな褒め言葉になるのかわからないけれど、少なくとも「彼らしさ」は揺るぎない。その不器用なほどの一貫性が、妙に微笑ましいのだ。私があの頃、彼にそういう性格を与えた理由も、今なら少しだけわかる気がする。
「……でも、なんでこんなに気になるんだろう。」
その言葉が湯気に消える頃、私はお湯に肩まで沈みながら目を閉じた。キリアンの姿が思い浮かんでは、湯船の中に消えていく。その光景が、私の心のどこかに小さな波紋を残していた。




