30円引きのコーヒーゼリー
言いたいことがあった。確かに、何か伝えたかったはずだ。でも、それが何だったのか、どうしても思い出せない。まるで夢の中で見た光景が、朝目覚めると霧散してしまうように、指の間をすり抜けていく。焦るほどに遠ざかり、思い出そうとすればするほど、その輪郭は曖昧になる。
私はリビングの椅子に座りながら、目の前のコンビニ袋に視線を落とす。何かが足りない気がする。何か大切なものを伝えるべきだった気がする。でも、それが具体的に何だったのか、どうしても掴めない。私の脳が意図的にその記憶を隠しているのか、それとも最初からそんなものは存在しなかったのか。
「……なんだったっけ。」
自分に問いかけるように呟いてみる。もちろん、答えは返ってこない。けれど、その声に反応したのか、キリアンが目の前で首を傾げた。その仕草は、まるで猫が聞き慣れない音に興味を示す時のようで、どこか妙に人間味を感じさせる。いや、人間味というより「生物らしさ」か。何にせよ、彼の異質な外見とその仕草とのギャップが、私の緊張を少しだけ緩める。
「忘れたのか?」
キリアンの声が冷静に響く。そこに嘲笑のニュアンスはない。ただ、純粋な事実確認としての問いかけだ。それが逆に、私を少しだけ恥ずかしい気持ちにさせる。
「そうみたい。まあ、どうせ大したことじゃないからいいけど……。」
とりあえずそう答えることにした。自分でも、こういう時の自分の態度が嫌いだ。何かを思い出せないことで、相手に「何でもない」と言い訳して、話を流そうとする自分。それが本当に何でもないわけがないのに。
でも、目の前でオッドアイの瞳が私をじっと見つめていると、それ以上この話を続ける気力が湧かない。だから、私は無理やり話題を変えるために、目の前のコンビニ袋に手を伸ばした。
「そうだ、これ。さっき買ったんだけど……あげる。」
袋の中から取り出したのは、30円引きのシールが貼られたコーヒーゼリー。正直、買った時は自分で食べるつもりだった。値引きされたスイーツは、私の日常におけるささやかな贅沢だ。だけど、今はそれをキリアンに渡してみたくなった。何かを思い出せない自分の気まずさを埋めるために。
キリアンはゼリーを受け取ると、じっとそれを見つめた。彼の瞳が、まるで未知の物体を観察するようにゼリーの表面をなぞっている。その姿が、思いのほか真剣で少し笑いそうになった。
「これは何だ?」
「コーヒーゼリー。甘いんだけど、ちょっと苦いやつ。」
「……甘くて苦い?」
再び首を傾げるキリアン。その動作は、さっきよりも少しだけ大きかった。私は思わず噴き出しそうになったのを飲み込みながら言葉を続けた。
「そう。まあ、食べてみればわかるよ。」
彼はしばらく考えるようにゼリーを眺めてから、小さく頷いた。その動作は妙に洗練されていて、どんなものでも堂々と受け入れる「堕天の殺戮者」という肩書きを背負う男に相応しいものだった。だが、それでも私の脳裏に浮かぶのは、「このキャラ、あんたが作ったんでしょ」という冷静なツッコミだ。
その時、ふと朝の出来事が頭をよぎった。電車の中で、キリアンが脚を広げた男性に対してあの不思議な圧力をかけてくれたこと。あれがなければ、きっと私は嫌な気分を引きずったまま一日を過ごしていただろう。
「あ、そういえば……。」
私は思い出した。いや、言いたかった言葉そのものではない。でも、朝の出来事をきっかけに、何かを伝えるべきだと思った記憶が蘇った。
「今朝は、ありがとう。」
小さな声でそう呟いた。キリアンは、しばらく私を見つめた後、ふっと視線を逸らす。その動作に、私は少しだけ心を揺らされた。彼が何を考えているのか、私にはまだわからない。ただ、その表情に見えたわずかな柔らかさが、私の胸の奥を少しだけ温かくしてくれた。




