帰宅
マンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗り、そして自分の部屋の前に立つ。手に握られた鍵が冷たい。冬の夜の空気が、まだ微かに手のひらに残っている気がする。それでも私は鍵を差し込み、ゆっくりと回す。この一連の動作には何の感情もない――はずだったのに、今日は少しだけ違う。
鍵を回す音が、妙に大きく響いた気がした。
ドアが開く。その先には、いつもと変わらない光景が広がっている。狭くて雑然とした1LDKの部屋。靴を脱いで一歩足を踏み入れ、ドアを静かに閉める。この瞬間が、なぜかいつも少しだけ怖い。閉じる音がやけに重く感じられて、それが「自分だけの空間」に戻る儀式のように思えてしまうからだ。
部屋は――静かだ。
誰もいない。いや、最初から誰かがいるなんて期待していない。むしろいないことを確信していたのに、それでも私は部屋の中を一通り見回してしまう。リビング、キッチン、そして浴室。そこには誰の気配もなく、ただ「私の部屋」という現実だけが残っている。
「……。」
息を吐いて、やっとリビングの椅子に腰を下ろす。荷物を放り出し、コンビニの袋をテーブルに置く。これが私の日常だ。変わらない風景と、変わらない時間。ただ私がいるだけの空間。誰にも邪魔されないし、誰の視線も感じない。
これが、私の生活。
「いつも通り。」
声に出してみる。そう、これがいつもの私。これまでも、そしてこれからも変わることのない私の日常だ。誰もいない部屋に帰り、一人で食事をして、一人で眠る。それ以外の選択肢があるとは思えないし、仮にあったとしても、それを掴むための行動力なんて私にはない。
「……。」
いつものように座ったまま、天井を見上げる。この静けさに慣れているはずなのに、なぜか今日は少しだけ落ち着かない。何かが違うような気がしてしまうのはなぜだろう。きっと、あの異質な存在――キリアンのせいだ。彼が突然現れてから、私の「いつも通り」が少しずつ揺らいでいる気がする。
でも、今は――彼はいない。
私の部屋には、ただ私だけがいる。そう思うと、少しだけほっとする。誰かと一緒にいるなんて、きっと私には向いていない。あの異常な存在に振り回されるのも、もうたくさんだ。静かな夜が手に入ったのだから、それを素直に受け入れるべきだ。
それなのに、胸の奥が妙にざわつく。この静けさが、今は少しだけ違和感を持って私に迫ってくる。こんな静けさを、いつも「安心」と感じていたはずなのに。
「これがいつもの私。」
自分に言い聞かせるように呟く。それは間違いない。この部屋は私だけのもの。この生活も私だけのもの。この孤独も――そう、私だけのもの。
「そして、これからも。」
呟いた言葉が部屋の中でかすかに響き、そのまま消えていく。その消える音が、妙に大きく聞こえた気がした。それでも私は、何も変わらない風景に目を伏せながら、椅子の背にもたれかかるだけだった。