二律背反する心
駅のホームに降り立つと、冬の冷たい空気が頬をかすめた。車内の緊張感から解放された瞬間、肩の力が少しだけ抜ける。けれど、完全には抜けきらない。まだ視界の隅に「彼」の存在を感じているからだ。
改札へ向かう足取りは、自然と速くなる。会社までの道のりは、いつもなら無意識のように歩くルートだ。でも今は、歩くたびに気持ちがざわつく。いや、正確には「彼がついてくるのではないか」という不安と、「ついてきてほしい気持ち」が入り混じっているからだ。
会社に着いて、上司や同僚がいる中で、キリアンがどう振る舞うかなんて想像もつかない。それが恐ろしくもあり、少しだけ――ほんの少しだけ面白そうにも思える。どんな顔をするだろう、あの威圧感たっぷりの彼が、私の退屈な事務仕事を見て。
そう思った瞬間、自分の考えに驚く。何を期待しているんだろう、私は。ついて来るなんて迷惑でしかないはずなのに。
「ついて来る気…あるのかな?」
思わず小声で呟いてしまった。誰にも聞かれない距離感を確認しながら、ちらりと横を見ると、キリアンが冷たい目つきのまま歩いている。目の前を歩く人々の中で、彼だけが異質に見える。その存在感は、物理的なもの以上に圧倒的だ。いや、誰にも見えないのに圧倒的だというのはおかしな表現かもしれないけれど、そう感じるのだから仕方ない。
「そろそろ『会社』か?…お前に迷惑はかけまい。此処にて帰還する。」
突然、キリアンが言った。声が低く、けれどどこかいつもより柔らかい響きを帯びていた。その言葉が、一瞬頭の中で理解できなかった。
帰る?迷惑をかけるから?あの「堕天の殺戮者」が、私に迷惑を気遣うようなことを言うなんて、設定にはなかった気がする。それとも、私の記憶違い?
「あ…そっか。じゃあ、気をつけて帰ってね。」
反射的に出た言葉に、自分で驚いた。気をつけて?帰るってどういうこと?私のマンションに?それともブラッド・ヘイヴン?突っ込みどころは多すぎるのに、私の口はそれ以上の言葉を発さなかった。
キリアンはふっと微笑んだ。いや、正確には「微笑もうとした」という方が近いかもしれない。その顔には、どこか困ったような苦笑が浮かんでいた。そして、次の瞬間、彼の輪郭がぼやけ始めた。霧のように、溶けるように、彼はその場から消えていく。
「…。」
彼がいなくなったことに、ほっとする。これでやっと「普通の日常」が戻ってくる。会社に着いて、デスクに向かい、いつものように書類をこなし、退屈で穏やかな日々が始まる――はずだ。
でも、その一方で、胸の奥が少しだけ、ほんの少しだけ、ぽっかりと空いたような感覚が残る。何だろう、この気持ちは。彼がいなくなったことに安心しているのに、同時に残念だと思っている自分がいる。矛盾している。馬鹿げている。私はそんな自分を、心の中で嘲笑う。
ついて来られたら迷惑だし、ついて来られなければ物足りない。このわがままで身勝手な感情は、一体どこから生まれてくるのだろうか?
「…これでいいんだよね。」
自分に言い聞かせるように呟いた声は、誰にも届かなかった。もちろん、もうそこにキリアンはいない。私の胸のざわつきを見透かすような彼の冷たい瞳も、今はどこにもない。
でも、どこかで「次にまた会う」ような気がしている自分がいる。その予感が嬉しいのか、それとも不安なのか、私にはまだわからなかった。