制止
「殺さなくていいから!脚を閉じさせるだけで十分だから!」
小声で言ってから気づく。いや、気づきたくなかった。これがどれだけ恥ずかしいお願いかを。隣の男性に聞こえていないことを祈るばかりだ。これを聞かれたら、普通に変な人認定される。それも当然だ。だって、通勤電車で隣の男性の脚を閉じさせるために、殺さなくていいからと空想の魔公爵に頼み込むなんて、どう考えたってまともじゃない。
でも、私は頼まずにはいられなかった。なぜなら、隣の男性の脚の開き具合が、私の限られたスペースをじわじわと侵食してきているからだ。気づけば、私の右半身がすっかり仕切り板に追い詰められている。これ以上耐えるのは無理だ。でも、直接言う勇気もない。そんな普通の対処法を選べる私だったら、そもそもこの状況にはなっていない。
だからこそ、私はキリアンに頼るしかなかった。
「お前は本当に甘いな。そんな下等種に情けをかける必要がどこにある?」
キリアンが、冷たくも呆れたような声を放つ。オッドアイがわずかに細まり、私を値踏みするように見下ろしてくる。その視線に、全身がピリピリとした緊張感に包まれる。いや、これで萎縮してはいけない。ここで引き下がれば、電車の中でどんな大惨事が起こるか分からない。大げさかもしれないけれど、実際それくらいの決意がなければ、この状況は変えられないのだ。
「脚を閉じるだけでいいの。お願い、キリアン…」
言葉を絞り出すように言うと、彼は一瞬だけ私をじっと見つめた。そして、再び溜息をつきながら、ゆっくりと手を上げる。その仕草は優雅で、まるで舞台上の俳優が見えない観客に向けて動きを見せているかのようだった。
「ふん、いいだろう。見せてやる、お前の愚かな願いに応える力を。」
その声には、どこか楽しむような響きすら含まれていた。そして――彼の指が軽く空中を滑ると、目の前で、目に見えない波が広がった。いや、波というよりも、空気そのものが揺れたように感じられる。
その瞬間だった。
隣の男性が、勢いよく脚を閉じた。いや、閉じるというよりも、力強く「閉じさせられた」という表現の方が正しい。彼の表情には戸惑いが浮かび、スマホを持つ手が少し震えている。何が起こったのか理解できていないようだ。
だが、それは隣の男性だけでは終わらなかった。電車の車両全体を見回すと、そこかしこで脚を開いていた男性たちが、次々と脚を閉じ始めていたのだ。まるで目に見えない何かに「押し込められている」かのように、全員が同じ動作を繰り返す。まるで見えない力に引き寄せられるように、一斉に脚を閉じていく。
何これ。いや、これをお願いしたのは私なんだけど。だけど――何これ。
「これでいいだろう?」
キリアンが冷たく言い放つ。彼の目には、微かな満足感が宿っているように見えた。
「愚民どもに教育を施しただけだ。何も問題はない。」
教育。キリアンのその一言が、妙に響く。「教育」という言葉は確かに正しい。
そして同時に、車両全体が妙に静かになっていることに気づく。脚を閉じた男性たちは、なぜか皆、目を伏せたりスマホに視線を戻したりしているが、彼らの挙動にはどこかぎこちなさが残っている。何が起こったのか分からないながらも、彼らの無意識が「何か異常」を感じ取っているのだろう。
「…ありがとう。」
私は、かすかに声を絞り出す。感謝しているのか、それともただそう言うしかないのか、自分でもわからなかった。ただ、これでスペースは確保された。それだけが唯一の救いだった。