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憤怒

顔を上げるべきではなかった。


それは、ある意味で本能的な警告だったのかもしれない。電車の振動が微かに伝わる中で、私は隣に座った迷惑な男性の存在に気づいていた。だが、それを直視するのは、私自身の小さな「安全領域」を侵される瞬間を確定させるようなものだ。だからこそ、バッグに視線を落とし、何も見えないふりをしていた。


それでも、私は顔を上げてしまった。小さな好奇心か、それとも自分を奮い立たせるためだったのか、理由はわからない。ただ、次の瞬間に視界に飛び込んできたものは――


「……。」


鬼だった。


それ以外の言葉が見つからない。目の前に立つキリアンの顔は、まさに鬼そのものだった。普段の冷たい美貌はどこかへ消え失せ、代わりにあるのは、怒りに満ちた鋭利な目つきと、何かを噛み砕こうとするかのように歪んだ口元。漆黒と純白の翼が微かに震え、そのたびに空気がビリビリと振動しているのを感じる。電車の中だというのに、その存在感は異常だった。


そして、彼が放つ「殺気」が、私の全身を凍りつかせた。


「なんだ、この下等種は…」


低く、冷徹な声が耳を刺すように響く。下等種――それが、隣に座った男性を指しているのだと理解するのに時間はかからなかった。男性はスマホをいじる手を止めることなく、完全に無関心を装っている。というか、キリアンの姿が見えていないのだから当然だ。だが、私の目には、彼の背後で怒りに震えるキリアンの存在がはっきりと見えている。


「女性に、いや…俺の妖狐に、何をしているんだ…」


言葉は低く、けれどその中に含まれる怒りの密度は恐ろしく濃い。キリアンの全身から放たれる殺気が、目に見えない刃となって男性に向けられているのがわかる。冷たい空気が広がり、私は無意識に小さく身を縮めた。この状況が異常だとわかっていながらも、何もできない自分に苛立ちすら覚える。


「殺すぞ…」


その言葉が彼の口から漏れた瞬間、空気が一段と重くなった。まるで電車全体がその殺気に支配され、時が止まってしまったかのような錯覚を覚える。いや、錯覚ではないのかもしれない。目の前のキリアンは本気で「何か」をしようとしているのだ。それが何であるのか、私には想像もつかない。


「ちょ、ちょっと待って!やめて!!」


必死に小さく声を絞り出した。喉の奥が乾き、声がかすれる。それでも私は、キリアンの視線を引き付けようと懸命に叫ぶ。彼の目がわずかに私の方に向いた。怒りに燃えるその瞳が、わずかに冷静になったように見えたのは気のせいだろうか。


「この…下等種を滅殺する…」


それでも彼の口から漏れる言葉は収まらない。私の頭の中で、事態をどう収めるかがぐるぐると駆け巡る。隣の男性が何も知らずにスマホをいじっているのを見て、私はただ、これ以上の事態にならないように祈るしかなかった。

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