脚開き男性
電車が次の駅に滑り込む音が、少し大きめに響いた。私は自分の膝の上に置いたカバンに視線を落としたまま、誰も気づかないように息を整える。何事もなかったかのように振る舞おうとしているが、目の前に「堕天の殺戮者」が立っている以上、それはもはや無理な話だ。とりあえず次の駅で誰かが乗り降りし、場の空気が変わるのをひたすら待つしかない。
電車が停車し、ドアが開く。人々の乗り降りが始まる音が、雑多な足音とともに耳に入る。私の隣の席に座っていた女性が「降ります」と小声で呟きながら立ち上がると、空席がぽっかりと現れた。ほんの少しの開放感が私の中に生まれた瞬間だった。
だが、そのわずかな平和はすぐに壊れる。
空席に目を付けた一人の男性が、大股で歩いてきて、何の迷いもなくその席に腰を下ろした。いや、「腰を下ろす」というより、「腰を落とす」だ。まるで自分の存在を誇示するかのように、どっかりと座るその動作。座った途端、彼の脚は大きく開かれ、私の側へと侵食してくる。左右のスペースを支配するその脚は、当然の権利のように場所を奪ってきた。
「あの…」
口に出すべき言葉は喉元で詰まり、そのまま行方不明になる。見ず知らずの相手に注意する勇気など、今の私にはない。
男性はスマホを手に取り、無言で画面をスクロールし始めた。私の存在など、初めから彼の意識には存在していないかのようだ。それはそうだろう。私がここにいるという事実は、彼にとって無意味なのだから。無意識に「自分が中心」だと思っている人間は、周りを省みる必要など感じないのだ。
そして私は、自分の左側を完全に彼の膝に押し出されていることに気づいた。彼の脚が押し付けてくる微妙な圧力が、私の小さなスペースをさらに狭めていく。普通なら少し脚を閉じれば解決する話なのに、それすら彼には思い付かないのだろう。いや、そもそも考えることすら放棄しているのかもしれない。
「狭い…」
呟きにもならない声が、私の喉から漏れる。これが現代社会なのだ。目の前に翼を広げた魔公爵がいても、隣の席で脚を広げるだけの一般男性が、現実においては最大のストレスになる。私が「堕天の殺戮者」をどうするべきかという悩みよりも、「隣の脚」にどう対処すべきかという問題の方が、今は遥かに重大だ。
ああ、座るべきスペースは確かに平等に与えられているはずなのに、どうして男性の隣になると、私のスペースはいつも侵食されるのだろう。
キリアンが気づいているかはわからない。いや、彼が気づいたところで、何も変わらないだろう。ただ、私の心の中には、わずかに「星幽体」であるキリアンにまでこの空間の圧迫感を分け与えてやりたいという小さな反抗心が生まれた。それくらい、私はこの狭さに追い詰められている。
こんなことで悩む私は、一体どうかしているのだろうか?いや、どうかしているのは、この脚を閉じない隣の男性の方だ。そう思いたい。だが、私が何も言えないのも事実だ。結局、私は小さく息を吐いて、さらに体を縮こめることしかできなかった。