Phase473(4)
バンッ──、バンッ──、バンッ──
「ハァ、ハァ、ハァ……」
男は追ってくる紫血鬼に向かい威嚇するように発砲しながら、隠れるようにして路地へ入ると、崩れるようにしてその場に尻を着き、必死に呼吸を整える。
「……チッ! ちょこまかと動きやがって……。くっ!」
──東京都台東区秋葉原
多くの電気屋やアミューズメント施設が立ち並び、活気に満ち溢れていたこの街も、今となっては活気のかの字もなく、あるのはただ、誰に向けて灯っている訳でもないネオン看板を纏ったビルと、その灯りに照らされる語創者たちの死体だけであった。
その中心部。何棟ものビルが双璧のように建ち並ぶメインストリートと呼ばれる通りを、道端で死骸となり朽ち果てる語創者たちを横目に必死に逃げる一人の男。やがて灯りの少ない路地へ逃げ込むと、痛みに顔を歪ませながら腹部から溢れ出る大量の血を手で抑え、その場に腰を下ろした。紫血鬼の爪の形に抉り取られその傷は臓器にまで到達し、意識を朦朧とさせながら、この絶体絶命的状況を打開する一手を思案していると、そこへ
「お、おい、そこの女」
まるで女神の如く、絶好のタイミングで一人の若い女が通りかかった。スポーツメーカーのロゴが入ったタイトな黒ジャージを履き、紺色のMA1ジャケットを羽織るその女は、自分の前を飛ぶ昆虫のようなものから視線を切らさず、背後からの男の呼びかけに歩みを止める。
「俺の血の匂いを辿って、奴が来る。相手も相当弱ってるが、俺は見ての通り、この有様だ。もう弾もインクも残ってねぇ。だから、お前が止めを刺してくれ。取り分は全部お前にやる」
その言葉に女は黒髪のポニーテールを揺らし一瞬だけ振り返ると、露になったアジア系の目尻が少し吊り上がった目で男を蔑むように見て、「……興味ない」と毅然とした態度で言葉を返し、再び虫に導かれるように歩みを進めた。
「おい、待ちやがれっ! 弱った鬼を譲ってやるって言ってんだ。だから」
「ヴルルルルルル──」
そこへ獣のように喉を鳴らし、路地の入口に鬼の手が掛かり、次に顔を覗かせる。肩まで伸びる長い髪の中から不自然に右脳の辺りから生える一本の角。そしてナイフのように尖った指先は、べったりと人間の赤い血で染まっていた。
「ちくしょおおオオオ──!」
男は差し迫る表情で創筆を握り、ペン先を力一杯地面へ押し付け、何度も何度も創語を書く。がしかし──
無情にも出てくるのは、自分の血管と繋がった管から伝う赤血のみであった。
「やめろ、来るなっ、来るな──ッ!」
「ヴルルルルラララァァァァ──!!」
グチャ。
肉塊が抉れる鈍く、重たい音が路地に反響すると、男の胸部を貫通した紫血鬼の手はそのまま心臓を抉り取り、一瞬にして臓器としての機能を停止させた。そして最高潮に達した高揚は収まることを知らず──男の心臓を片手に女に向かって疾駆する。
しかし、そんな殺人鬼を前にしても女はいたって冷静で、慣れた手つきで創語を書き記すと、ただ胸の前で腕を伸ばし、手を少しだけ開く。記された紫血からは雫が宙へ浮かび上がり、何かを生成していく。
「グルルルルッゥ──!」
その間も紫血鬼は女との距離を縮め──射程距離に入った頃を見計らうと、凶器と化した爪を掲げ襲い掛かった。そのとき。
スパッ──
寸前のタイミングで生成された一本の刀が閃くと、同時に紫血鬼は態勢を崩し、寸毫の差で爪が女の体の隣を薙いだ。
「……くだらない」
そうして男に吐き捨てたように尖った言葉を口にした途端、紫血鬼の頭が首から滑り落ち、遅れて体が地面に倒れる。その切り落とされた顔の両目からは、それぞれ一滴の紫涙がこぼれ落ちていた。
女は大金へと換わる死体に見向きもせず、再び昆虫を追い路地を進むと、やがて路地を抜けた昆虫は、メインストリートから一つずれた通りの一画にある、二階建ての雑居ビルの看板に止まり翅を休めた。
『メイド喫茶』という文字の『メイド』の部分だけが赤いスプレーのバツ印で消され、その上に『冥途』と乱雑な字で書かれた看板からは、メイド喫茶の必須条件ともいえる萌え要素が微塵も感じられず、そこにビル全体を包み込む不気味な薄暗さが追い打ちをかけ、禍々しい空気が醸し出されていた。
そんなビルを前にしても女は物怖じする様子を一切見せず、看板に止まった昆虫の右翅に紫色で浮かび上がった『74』という数字を見るや、嘆息をもらす。
「また一本角……」
女は首を横に振りながら言葉を落とし、その期待外れの数字を背に踵を返した。
「……?」
そのとき、背後から弧を描くように飛んできた一つのシュークリームが女の眼前に落ちたと思えば──突如、猛々しい爆裂音と共にそれが破裂し、辺りには黒煙と焦げた匂いが立ち込めた。同時に、昆虫の頭の隣からもう一つの頭が生え出るようにして現れ、気色の悪い双頭虫となると、新たに左翅に『89』という数字が浮かび上がった。