Phase473(1)
Phase 473
『──姉さん、早く迎えに来て』
「はっ──」
目を開くとそこには見慣れた天井が目に映る。彼是数年間、ノア・エスペランザは毎晩同じ夢で目を覚ましていた。ノアは枕元にあったスマートフォンのスリーブを解除し、まだ深夜の入り口にも達していないことを確認すると、体をゆっくりと回転させ体をベッドに対し半身の状態にし、枕の下から年季の入ったA6サイズのノートを取り出す。そして表紙を開き、一ページ目にクリップで止められていたポロライド写真に写る妹のルナを愛おしくも、どこか儚げな眼差しでぼんやりと眺めながら、顔の輪郭を人差し指でなぞっていく。
磨き上げられたサファイアのような透き通る青い眼に、それを強調するかのようなカールした長いまつ毛は、姉妹に共通した部分であったが、父譲りの鼻の高さはノアにはない部分であった。その、決して高くはないがかといって低くもない鼻から溜息を吐きながらページを捲ると、そのページからは日付と一文の短い日記が、一日おきに更新され、端から端までびっしりと文字で埋め尽くされていた。その始まり、二ページ目の一行目に記載された、もう何度読んだかもわからない来日した日付と文が言葉としてではなく、意味を持たない独立した記号として目に飛び込んでくると、脳内にある記憶の引き出しに潜り込み、当時の鮮度を保った感情を次々と引きずり出してくる。その度、ノアの心はそれらが持つ力にかき乱された後、最終的に一つの感情に支配されるのであった。
「ルナ……、ごめ」
ピピピピピピ──
言葉がスマートフォンのアラームに遮られると同時に、心に広がりかけていた黒いものがすっと引いていく。平心を戻したノアはアラームを止めながら上半身を起き上がらせ、一つ深呼吸をし、ふと窓の外を眺める。煌々と光る電光看板が作る街の下、千鳥足で介抱されながら上司の愚痴をこぼす会社員、適当な言葉を並べて客引きする定員、何重もの嘘で塗り固められた中年男性と若い女のカップル。初めは全てが異様に映った光景も、来日から一年が経った今となっては、どれも当たり前の風景となって認識されるようになった。
しかし、その街の一寸先、密接するように聳える東京二十三区を覆うコンクリートで形成されたドーム。当然のことながら、部屋の窓からその全体を目視できるはずもなく、表面に描かれた幾何学模様は街の風景や景観といった概念を無視するかのような風情を醸し出し、悠然と聳え立つその佇まいはいつになっても見慣れることはなかった。
「必ず……、見つけ出してみせる」
窓ガラス越しに決然たる瞳でドームを見つめながら、小さく震える左手には、日記と共にブレスレットから伸びるペンが握りしめられていた。
──一年半前
二〇XX年。突如として原因不明のウイルスが東京二十三区を襲い、一日も経たずに二十三区内の住民全員が発症した。そのウイルスは感染者の血液を紫色に変色させ、頭部から角を生やすことから『紫血鬼化現象』と名付けられた。
ウイルスは人から人への感染は確認されなかったものの、紫血鬼と化した人間は自我を失い、正常な血を持つ者を前にすると、突発的にその者を襲う習性があった。ゆえに日本政府はすぐさま東京二十三区を自衛隊で包囲し、紫血鬼たちを隔離するための巨大なコンクリートドームを建設していった。日本政府を含め各国の機関は研究に乗り出すも、前例のない症状に研究は困難を極める中、経済活動の主軸であった首都中枢部を失った日本の景気はことごとく悪化していき、臨時的に大阪に建てられた国会では、一刻も早い経済活動再開を掲げた殲滅派と、ワクチン開発を待つべきだという人権派で様々な議論が交わされた。その最中、アメリカの民間研究機関の研究により、一人をワクチンを作成するためには一人の紫血から僅か数ミリグラムしか採取できない成分が約五万人分必要であり、その試算に基づくと、ほんの数百人程しか助けることができないという発表がなされると、それが長く続いた議論に終止符を打ち、殲滅という結論に至らせた。
『東京再興計画』と題されたそれは、各国から招集した軍隊を使った、ただの殺戮であり、紫血鬼たちは無残に殺されていくはずであった。がしかし、自らの死を前に紫血が持つ潜在能力を開花させた紫血鬼たちは、全身の皮膚を銃弾も通さぬ鋼鉄の硬さへと変え、紫血を思考した物へと変化させる具現化能力を得ると、軍人たちを返り討ちにしていった。
なすすべがなくなったかのように思われたが、他機関より研究が進んでいたスイスの研究室が、紫血化の原因とされるウイルスを解明し、それを元に紫血鬼の具現化能力と同じ効力を発揮できる対紫血鬼用兵器『創筆』を開発した。
その外見は色形は多種に展開されているものの、全てに共通して従来のボールペンより少し太い構造となっており、中では透明の二本の管が遺伝子のように螺旋状に絡みあっている。一本の管は持ち主の血管と繋がっており、赤い血が流れ、もう一本には赤血を紫血に変える作用を持つウイルス成分と同等の効力を持つ培養液が流れている。二本の管の液体がペン先で混ざり合いできたインクで、具現化したい物の単語を『創語』として書き記す事で、それが具現化され、鋼鉄の皮膚を破れる武器になりうるという仕組みであった。しかし、万物を生成できるわけではなく、あくまでも現実世界にあり、且つ、それを構成する紫血の量に見合う体積の物でなければならない。
そして日本政府は一刻も早い東京再興を目指すため、高額な謝礼金を設定し、軍人のみならず、各国から『語創者』という名の狩人を募り、現行のシステムが確立させたのであった。