Phase475(3)
南展望台についたノアと矢吹は、鉄格子で形成された牢獄の中で憔悴するルナを見るや、すぐさま駆け寄ろうとした。
「……来ちゃ駄目ッ!」
それに気づいたルナは咄嗟に叫声を上げ、二人はピタリと足を止めた──その瞬間。天井からぶら下がる照明に乗り、待ち構えていた静は、獲物を狩る鷲の如く速さで急降下し、勢いそのままに両手の爪を急速に伸ばし、二人へ斬撃を見舞う。ルナの声のおかげもあり、間一髪、飛び退り距離を取ることに成功した二人は、各々武器を生成し次の戦闘に備える。
「ったく、荒い挨拶だぜ」
「挨拶なら、ちゃんとした礼儀に則ってします」
「なら、最初からやり直してもらおうか?」
「その必要ありません」
毅然とした態度で言ってのけると、懐から取り出した刃がついていない柄を左の掌に当て、ゆっくりと掌から遠ざけていく。離れた分だけ柄から生えるように刃が生成されていくと──やがて表面にangryとの文字が刻まれた刀が完成した。
「あなたのような感情に振り回されて動く人間を見ると、無性に苛立ちを覚えます。それは、単純に見ていて哀れだからではなく、抱いている感情の大きさが中途半端だからです。だから、自ずと行動もおざなりになってしまう」
その刀の切先を二人にではなく、自分の腹部へと向けたかと思えば、躊躇なくその切っ先を突き刺した。しかし、刺された部分からの出血もなければ、痛みを感じている素振りも一切見せない静は、淡々と話を進めていく。その不可解な行動に二人は瞠目しながらも、来る未知の攻撃に身構える。
「人間はいたって単純。思考は感情に支配され、行動は思考に支配される。つまり、抱く感情がその人間の全てを決定する。誰よりも強い感情を持った者だけが、戦いに勝てるのです」
言葉が終わると同時に刀を引き抜いた途端、突如頭上から三本の角を生やした静は、刀の切先を二人へ向け、両手で柄をぐっと握りしめた。
「「──⁉」」
その姿を捉えた瞬間、幻影のように静が目の前から消え──同時に二人の体に無数の切り傷が刻まれる。
「浅かったですね」
コンマ数秒前まで耳にしていた静の声が、二人の背後で鳴る。自分の身に起きている全ての現象に理解が追い付かないまま、遅れてやってきた激痛に耐えかねた二人は、ひれ伏すようにその場に跪いた。
ノアは全身に帯びた切り傷から、血液が無限に滴り落ちる音をぼんやりと捉えながら、一つの仮説を立てる。
相手が剣を抜いた直後、残像を残す程の途轍もない速さで詰められ、更にこれだけの切り傷をつける斬撃を行ったとしたら。
勝ち目はない。
最早、動体視力云々の話ではない。人が認識できる領域の遥か外、意識外から攻撃を仕掛けることができる相手に、成す術など……。
全てを悟り、何とか表情に出るギリギリのところで絶望を留めるノアの隣で、同じく無数の切り傷を負った矢吹も、落胆の様子を見せる。
「何が苛立ちを覚えるだ……」
が、その眼の奥に宿る希望の光は、潰えるどころか、徐々に光度を増していく。
「……何が感情の大きさが中途半端だ。俺たちは機械じゃねぇ。生身の人間だからこそ、何かを感じる心だって皆違う。その心で感じるもんに大きいも小さいもねぇ。感情は、その人間の心の形に変わるんだ。皆、それと精一杯向き合って生きてんだよ!」
次々に飛び出す熱を帯びた言葉の矛先は、自分とは百八十度違う思考を持つ静へでもありながら、未だ完全に拭いきれない怒りを抱える自分への言葉でもあった。
矢吹の怒り。それは、一目惚れしたルナへ気持ちを伝えることができない、奥手な自分への怒りであった。
「自分が、どうしようもないいくじなしでよかったぜ。おかげで、お前を倒せるんだからな!」
立ち上がると、片手に野球ボールを生成し、ホームラン予告のようにバットの先を静かに向ける。
「見ていてくれ、ルナちゃん。これが終わったら、ちゃんと気持ち伝えるから」
その呟きは誰にも聞こえない。ただ、自身に渦巻く怒りに訴えた呟き。その気持ちを憑依させたボールを宙へ放る。そして、全てをぶつけるように渾身の力で薙いだバットの芯に当たったボールは火を噴くと、文字通りの殺人ライナーと化し、静へ一直線に飛んで行き。
サッ──
風を切る音だけが静の前で微かに鳴る。何の音なのか。その場にいた誰もわからなかった。
次いでコンマ一秒後。直撃寸前であったボールは真っ二つに割れると、二つの破片は、静を避けるようにして猛スピードで通過した。
そこでやっと、ボールを斬るために刀を振った音であると理解した矢吹は、ただ唖然とし、肩で息をするだけだった。
「見せましょう。これが感情の力です」
その言葉を最後に姿を消した静が、再び現れたのは矢吹の背後であった。その間に行われた抵抗の余地などない、無慈悲な斬撃。それをもろに喰らうや、手からすり抜けたバットと共に、膝から崩れ落ちる矢吹の体。死を悟る時間すら与えてもらえなかった矢吹は最後、無意識に檻の中にいるルナを一瞥し──命を終えた。
「そんなっ……」
淡々と行われる残虐に戦慄し、生気を失うように尻餅をついたルナは、次のターゲットを定め歩み始めた静を捉えるや、咄嗟に鉄格子を掴み、振り絞るように嬌声を上げた。
「……逃げて、逃げて姉さんッ!」
ルナの切迫した声を聞き立ち上がろうとするも、間もなくして静の手はノアの髪を鷲掴みにし、それを支点に体を持ち上げた。
「人間は抱えきれない量の感情を抱えたとき、二つの行動を取ります。抱えきれず、虚無の世界に陥り自害するか、肯定するために行動するか」
冷たく、しかしどこか怒りで棘の生えた声で語りかけながら、懐から取り出したウイルスが入った注射針を首元へ刺す。
「うっ……」
「目を見ればわかります、あなたは後者の人間です。これから、最愛の人を前にそれを証明してみせましょう」
「やめてッ──!」
ルナの叫び声も虚しく、静は床に突き刺していた刀を引き抜き、angryと刻まれた表面を上にし、腹部へと突き刺し──途端、ノアに注入されたウイルスは、怒りの刀と呼応し高速で体内を駆け巡る。
「あッ……あああッ……」
頭皮を突き破り生える一本の角。加えて白目をむき、息を詰まらせ、泡を吹く。
「ふふっ。ふははははははっ。そう、そうよ。この怒りに飲み込まれる寸前の表情が一番うつく」
不自然に言葉が途切れたそのとき。何故か腹部に自ら刀を差したときと同様の違和感を覚えた静は、ふと視線を下げる。
「え」
「ちょいと、油断しすぎたようじゃな」
聞き覚えのある老婆の声と共に目に入ったのは、腹部を貫く=forgiveと刻まれた刃。
「なぜ……、なぜこの場所がわかった」
息を乱し、恐る恐る振り返った先には、=assimilationの効果が切れ、徐々に姿を露が露になる、猿金弥生の姿。
「お前さんが持ち帰った右腕のおかげじゃわい」
ふと目をやると、埋め込まれたGPSの光が微かに点滅するのを確認する。
「安心せい。殺しゃぁせん。馬鹿な父親に代わって、あたしが更生のチャンスを与えるだけじゃ」
そう勢いよく刀を引き抜くも、刺された部分からは一滴も出血がない。
「……嫌だ」
だが、先程までの悦に入った表情とは打って変わり、絶望と苦痛がないまぜになった表情を浮かべる静は、自分にしか見えない強大な恐怖から逃れるように顔を両手で覆い隠す。
「嫌だっ……。嫌だっ、嫌だっ、嫌だっ、嫌だっ、嫌だッ‼」
壊れた機械のように同じ言葉を、同じトーンで何度も積み重ねる。その度、生えた三本の角も先端から徐々に崩壊していき、床に転がった刀は融解し紫血へと変わる。
それに気づいた静は、顔を覆っていた手を放し、未だ辛うじて紫血鬼の形を保った鋭利な指先を首元へと近づけると、灰色をした虚ろな瞳で老婆を直視しながら、静かに呟いた。
「怒りを、返して……」
指を素早くスライドさせた直後、切断された頸動脈から、大量の紫血が噴射し、重力のまま体を横たわらせた。
「それほどまで拒むか。怒りのない自分を……」
怒ることでしか、存在を認められなかった人間の悲しき末路。その姿を憐みの眼差しで見つめながら近づき、瞳孔が開いた両眼に手を当て、瞼をゆっくりと下ろした。
「婆さん! ノアにもその刀をッ──!」
檻の中で叫ぶルナの声に反応した老婆は、のたうち回るノアの腹部に刀を刺す。次いで老婆は檻の鍵を開き、ルナを解放するや、一目散にノアの所へ駆け寄り、体を抱き寄せる。幾分かの苦しみは消えたように見えるものの、依然として意識は戻らないノアに震えた声が降りかかる。
「姉さん、起きてっ……」
その声は深層で渦巻く怒りの根源へと降り注ぐ。自分が日本での手術を提案してしまったが故に、大疫病に巻き込まれてしまったという責任感から派生する怒りに。
「お願いッ……」
囁かれる懇願。それはノアの深層の手前で停滞していた先程の声と融合し。
「ルナ……」
光矢となったそれは、ノアがこれまで抱えてきた強大な怒りの全てを粉砕した。
「大丈夫だよ、姉さん……」
崩れ落ちていく角を払いのけるようにして頭を撫でるルナは、目に涙を浮かばせる。
「私、何にも怒ってないよ……」
「ありが……」
風前の灯火のような声を共に震わせた手を、涙ぐんだ目元に手を近づけようとするも、静から浴びた斬撃で大量出血していたノアは、途中で力を失い、再び意識を失う。
「どきなさい」
そこへ割って入るように声を上げた弥生は、=transfusionで生成した輸血チューブを自分の手首と、ノアの手首に刺し、輸血を始めた。
「……なぜそこまで親切に」
感謝の意を示しながらも、少し懐疑的な視線で弥生の横顔をまじまじと見つめる。
「あんたには、うちの息子が迷惑をかけっぱなしだったからねぇ。これぐらいの罪滅ぼしは当然じゃよ」
「ってことは……」
詰まった言葉の続きを拾い上げるように、弥生は肩まで伸びた白髪を揺らし、ルナの方を向く。
「あたしゃ、猿金弥生。あんたを支配していた、猿金尊の母親じゃよ」
「そんな……。母親は死んだって、口癖のように言ってたのに」
「ほっほっ。そんなことをぬかしておったのか。まぁ、その気持ちもわからんでもないがのぉ」
視線が下がり、語尾がしりつぼんだ瞬間を逃さなかったルナは、すかさず声を挟む。
「……教えてください。何故、あの男がこのウイルスを作ることになったのかを」
弥生は一度溜息を吐いた後、ゆっくりと目を閉じると、記憶を辿るように言葉を紡いでいった。
「あいつには今は亡き妻がおった。二人は誰が見ても、仲睦まじい夫婦と言われる程愛し合っておった。そんな二人じゃ、子を授かるのも自然の流れじゃった。だが、妊娠した後の検査で、奥さんの体が脆弱性であることが発覚し、出産に耐えられない体であることが発覚した。そこで研究者であった尊は体を強くするため、人口血液を秘密裏に開発しよった。何度も何度も自分の体で実験を重ね、やっと完成したものの、万が一のためのワクチンは開発できず、ついに妻が出産の日を迎えた。ワクチン開発をしているのは知っていたが、見て見ぬふりをしていた。だけどの、流石にワクチン開発が間に合わなかったことを知ったときは、投与するのを止めたわい。じゃが、その提案を振り切った尊は、妻にウイルスを投与しよった。その甲斐もあり出産は見事成功し、静が生まれた。が、同時に予期せぬウイルスの突然変異が起こり、飲み込まれた奥さんはこの世を去った。最愛の人を失った尊は自暴自棄になり、行方を晦ませた。警察にも行方不明届けを出して、捜索してもろたが一向に見つからんかった。じゃが数ヶ月前。ようやく足取りを掴み、今ここにおるってわけじゃ」
話し終えると同時に、輸血のチューブを互いの手首から抜き取り、続けてノアの傷口の手当てにあたる。
「そんな過去が……」
意味深に呟くルナの言葉に、今度は弥生がすかさず言葉を挟む。
「さ、次はお前さんの番じゃ。なぜ、紫血鬼でありながら、人を襲わぬ。お前さんの体の中に流れとるウイルスは一体何なのじゃ?」
毅然たる問いに、ルナは意を決した様子で重い口を開いた。
「なぜか都内で一番大きい病院で手術を受けていたはずなのに、目覚めたら、何故か南展望台の研究室にいた。そして、あいつは私に洗脳するように語りかけた。君は選ばれた人間だって。最初、その意味は全くわからなかった。そして、あいつが研究室にいない間を見計らって、資料を盗み見している内に、彼の言葉の意味が理解出来た。信じられないかもしれないけど、あいつはとうの昔に従来のウイルスが怒りを許すことで消え去ることを突き止めている。そして、今あいつはこのウイルス進化系、怒りを含む一切の感情を持たずして、紫血鬼化するウイルスの開発をしている。そして、その実験を私にして、成功したと勘違いしていた。だけど、私は失敗作。なぜなら、人間のときのままの感情が存在するから」
ルナの口から次々と出てくる情報に、弥生は驚きを隠せない。
「私の怒りはもちろん、あいつに懺悔させること。だから、いち早く研究を止めさせなければいけない。じゃなきゃ、今度こそ取り返しのつかないことになる。だからお願い、弥生さんも一緒に来て」
ルナの決然たる口調から発せられる声に、起こされるようにノアはゆっくりと目を開く。同時に、ノアの手当てを終え、重い腰を上げた弥生は、床に横たわる刀を手に取った。
「あいつは今、どこにおる?」




