Phase473.5(1)
Phase 473.5
「くっ……」
腹部から流れ出る温かい液体の感触で意識を取り戻したノアは、ゆっくりと体を起き上がらせる。会社が入っていたのであろうそのフロアには、埃を被った事務用品の数々が、社員の帰りを待つかのようにしんと整列していた。
ノアはその一角のデスクに載ったパソコンを払い落すと、仰向けに寝転ぶようにして上に乗った。
=needle =yarn
そして針と糸を生成すると、デスクライトを手繰り寄せ、流血が続く腹の傷口に当てる。蹴りの一撃を受けた際、脛から突出した骨が刺さり生まれた傷。だがその骨は短く、臓器までは到達していなかったのは不幸中の幸いであった。
一度深呼吸をした後、意を決し、自らの手で傷口へ針を通す。
「ゥぁ──」
麻酔無しで行う縫合の痛みに悲痛な叫びが漏れるも、どこかに潜んでいるかもしれない紫血鬼に見つからないようにと、シャツの前襟を噛み必死で声を殺す。そうして何とか縫い終えたノアは、果てるように机へ全身を預け目を閉じる。瞼の裏に浮かび上がってくる記憶を頭の中で整理していると、次々と疑問が浮かび上がってきた。
一時的ではあったがフランクはなぜワクチンなしに人間に戻ることが出来たのか。なぜアメリカはウイルスを収めるどころか、増幅させる得体の知れないものを開発し、ライリーに手渡したのか。
そして今もまだ、ルナは原宿にいるのだろうか。
ライリーが死に、フランクが消えた今、確かめることができる疑問は一つであった。
=hole to Harajuku
ルナに会いたい。その想いに突き動かされるまま創筆を握ったノアは机の上にそう書き記すと、僅かな休息も取らず再び体を起こし、壁に掛けられた時計を一瞥した。
ゲート再開まで残り十七時間三十六分。
「持ってあと二か月程かと」
あまりにも短いルナの余命宣告を受けた母親は、言葉を失い項垂れるようにして顔を俯かせた。
「どうすれば助かるんですか」
同席していたノアが淡々と言葉を繋ぐ。選択肢はないと言われることを恐れ、あえて断定的な言葉を使って。
「日本へ行って下さい。この症状を完治させた実績を持つ医者がいる唯一の国です」
それに応えるように医者も簡潔に言葉を述べていく。
「ただ、国外での手術となると保険が適用されません。莫大な費用がかかることを覚悟しておいてください。それに加え、手術が成功する確率は──」
「そんなっ……」
母親の口から漏れるくぐもった悲嘆の声。その絶望的数字を聞いても尚、ノアは怯むことなく
「わかりました。すぐに紹介状の手配をお願いします」
「わかりましたって……。そんなお金、どこにもないわよ……」
「大丈夫よ母さん。お金は私が何とかする」
ノアは部屋に充満した重たい空気を押し上げるようにして立ち上がり、扉に手を掛ける。そんなあてがどこにあるのかと言わんばかりにノアを見つめる母親の懐疑的な視線を一身に受けて。
「本当に、大丈夫だから……」
「あ、姉さん」
病室に入って来たノアに気づいたルナはベッドから上半身を起こし、満面の笑みで迎えた。その朗らかな様子からは、難病を抱えていることなど微塵も感じさせない、いたって健康な十八歳の少女であった。
「また買ってきといたよ」
「ちゃんと熟してるの選んできた?」
紙袋から一つ桃を取り出し、ルナへふわりと弧を描くよう投げ渡した。
「ふーん。まぁまぁね」
桃の表面を指の腹で何度か軽く押し、ノアへ投げ返す。
「今から食べる?」
「うん」
ノアはベッドのすぐそばにあるサイドテーブルの引き出しからナイフを取りだし、慣れた手つきで皮を剥いていく。
「さっきお医者さんと話してさ」
皮が剥かれていく滑らかさと同じように、いつもの何気ない感じで話しを始める。
「ルナの病気、手術したら治るかもって」
「ほんと?」
「うん。日本で手術を受ければ大丈夫だって」
順調にひと繋がりで剥けていた皮が、後もう少しのところで途切れ、床に落ちる。
「お金は……?」
落ちた皮に視線を落とし、ワントーン低くなったルナの声がノアの背に刺さる。
「次の大会で優勝すればまた賞金が入るし、五輪のメンバーにも選ばれる。そうなれば、協会からの援助も受けられるようになるから。何にも心配しなくて大丈夫」
フェンシング選手であった父親の影響で物心ついたときには既にサーブルを握っていたノアは、遺伝として受け継いだその類まれなる反射神経、動体視力、瞬発力で国内のタイトルを総なめにし、女子フェンシング界の期待の星と呼ばれていた。三十半ばを過ぎ選手を引退した父親はノアのコーチ業に専念し、二人三脚で練習に励んでいた最中、突如原因不明の病で父親が急逝すると、医者の勧めにより遺伝を受け継いでいたノアとルナは検査を受けることとなった。可能性としては父親の遺伝を強く受け継いだノアの方だと医者共々推測したが、不運にも病の遺伝を受け継いだのはルナの方であった。
剥き終えた桃を切り分け皿に盛り、ベッドの淵に腰かける。
「だから、ルナは治すことだけに集中して」
「……ほんとに」
ルナは、到底受け止めきれない強大な愛情に対する感謝の気持ちを示す言葉を必死に探す。が、こぼれた言葉と共にノアの両腕が自分の体を包み込むと、もはやその思考さえも無意味となり、自分の全てを委ねるようにして体を預けた。
窓の外に爛漫と咲き誇る白いカーネーションが二人を見守っていた。




