番外編 希、徒然なるままに
私の朝は誰よりも早い。夜明けのほんの少し前、東の空が白んでくる頃に自然と目が覚める。日の出と同時に身体を最大限動かせるように身に着いた習慣のひとつだ。洗顔、着替えと続く身支度の最後は髪を結うこと。鼓から太陽みたいって言われたのが嬉しくて、ババに教えてもらった椿の髪油を塗ったり瑞に貰ったつげ櫛で梳いたりして大切にしてる(瑞はどっちかって言うと月だろとか言ってくるけど)。
支度が済んだら寝ぼすけ男2人が起きる前に、お気に入りの崖の上に行って日の出を見ながら笛の練習。これは私の生まれ故郷・忍の里に伝わる伝統楽器で、生まれてから最初に贈られ、忍術より先に奏法を教わる。武具と一緒に肌身離さず持ち歩いていて、吹くと息抜きにもなる。「風の音を聴き、風に乗せて流すように」が心得で、心の中で唱えて鎮めてから吹くようにしてる。望はすぐに吹けるようになったから、私の練習中は母さんをひとり占めできた幸せな時間だったな。
練習を終えたら次は忍術の自主練。私の里では5歳から本格的に教わることが慣例になっていたんだけど、もうすぐ修行が始まるって時に里が滅んでしまって、周りの大人たちがやっていたことをどうにか思い出しながら習得と向上を目指している。今のところ私が扱えるのはクナイや手裏剣といった飛び道具。なんとかの術!…は全然要領を得ない状態。せめて忍に伝わる書や巻物があればいいものの、火事で消失してしまった。常若から出て国を見回る時に裏で出回ったりしてないかなと思って市場を覗くこともあるけれど、そう簡単にはいかないのが現実。忍術を満足に使えない忍なんて、自分に対して情けなくもなるし悔しい気持ちでいっぱいだけど、父さんや母さん、忍の里の仲間たちのことを思うと、必ず習得してやるって気持ちが強くなる。
1時間半くらい経った頃にはもうお腹ペコペコの状態だから、塔へ戻って朝ご飯。寝起きの鼓が眠気を覚ましながら作ってくれていて、3人一緒にご飯を食べる。鼓の作る料理はどれも美味しくて、聞けばこれまで訪れた土地の郷土料理を参考にしているんだって。瑞は最近眠くて仕方ないみたいで、起きるのはいつもご飯直前。毎朝見るたびに背が伸びていってる気がして羨ましい。たまに2人とも早く目が覚めた日に瑞が鼓の指導を受けていることもあって、旋が教えに来てくれる(そして瑞に突っかかる)。
食事を終えたところで一度、望の様子を見に行く。一定の速さで繰り返される呼吸と穏やかな表情を見て、安心半分と、寂しさ半分。毎日治療に尽力してくれている鼓には感謝の気持ちしかないけど、それでもやっぱり早く、目を覚ました弟に会いたい。
その後は午前中いっぱい座学。身体を動かしたくて仕方のない私と瑞だけど、鼓が「若人は学べ」と言うから、常若の学び舎へ。ここは以前、賊に襲撃されて機能不全になってしまった村から避難してきたうちの1人が先生だったから、ぜひ子供たちに教えてほしいってことで開校されたんだ。私たちが学び舎へ行っている間、鼓は常若の外を回っている。
瑞と一緒に行くから自然と隣に座るものの、一部の女の子たちの視線が痛い。一度離れたところに座った日もあったけど、帰宅後の空気の重さと言ったら。家の中の空気の方が大事だわ!って思ったから、もう視線を気にしない訓練だと思うことにして、活字に集中する。
放課後は日課である常若の見回りをしながら帰宅。いつの頃からか顔を出した家でご馳走になることが増えて、お昼をいただいてから塔に戻るようになった。常若の人たちはみんな本当に温かい。
家に戻ったらいよいよ訓練。鼓と瑞、瑞と私、私と鼓、そして私と瑞対鼓。瑞には長刀を用いた剣術の素養があって、悔しいけどあっと言う間に差をつけられてしまった。だから私も鼓に鍛えてほしいって懇願しているんだけど、私はまず忍具を使いこなす方に注力しろって言われてる。瑞に言わせれば「鼓は希に甘い」ってことらしいけど、訓練においてそんなものは不要だ。私との実戦練習は圧倒的に手加減されている(もちろんそれでも鼓は十分に強いし私もついていくのに必死なのだけど)。前にそのことで拗ねていたら「君はウチの姫だからね」って。怒りたかったけど、なんだか照れくさくて力が抜けちゃって、やっぱり鼓には敵わない。代わりに瑞に向かって木の実を投げつけた。
日が暮れるまで訓練は続き、夕食の時間がやってくる。一番風呂はじゃんけんで決めて、残った2人が夕食を作ることになっている。私も瑞も最初の頃の料理は酷いもんだったけど、鼓や常若の住民に教わって着実に上達してきている。
見回りで気になったことを共有したり、以前災害に遭った場所が今どうなっているのかを教えてもらったり、常若での催し事について話したり。特に祭事については、信仰対象が共通のものも異なっているものもあるから、それぞれを尊重して実施するために心を砕いている。様々な土地から来てくれた人が混住する常若ならではのことかもしれない。
お腹が満たされると、一日の最後は鼓の大仕事を見守ることで締めくくられる。望の治療だ。
鼓と一緒に暮らして10年、出会いから数えたらもっと経つけれど、鼓には謎が多い。例えば施術に使う“仙術”はどうやって会得したのか、“風”はどうやって操っているのか、問いただしてもいまいちピンとこない。なぜなら鼓は「蓬莱で修行したから」と言うんだけど、“蓬莱”は実在しない山──もとい、地図にも載っておらず、見た者もいない山だから。これには載っているぞと古い読本を手渡され、「勉学に励みたまえ」なんて高笑いされながら言われてしまった。瑞にも話したら、蓬莱も結界の張ってある場所なのかもしれないという結論に至り、それなら有り得るなとひとまず納得はしている。
望の傷は胸部が最も重く、腕や足の傷が目立たなくなってきている一方でまだ爛れている。その痛みを少しでも代わってやれたらいいのに。直前まで一緒にいたのに、なぜ望だけ……。そんな風に考え始めるとキリがないのだけど、鼓の手が放つ光が部屋全体を照らす光に、どこかほっとする。施術を受けていなくても心を浄化してくれるような作用があるんじゃないかって思うくらい、優しい光。
そうして施術を終えた鼓は決まって煙草を吹かす。ばれないように1人になってから吸っているけど、纏うにおいですぐに分かる。禁煙を勧めても嗜好品を奪うんじゃないよと言って止めるつもりはないらしく、病気になっても自分で治せる、とか言う始末。健康のためにこれだけはずっと言い続けてやるって思ってる。
自分の部屋に戻って武具を磨いたり髪の手入れをしたり本を読んだりして眠りにつく。今でこそすぐに寝入っているけれど、常若で暮らすことになった当初は眠れない日が続いたから、救助した人たちが不安を感じているかもしれないということは忘れないようにしている。
こんな感じで私の日常の一日は過ぎていく。雨の日の過ごし方は少し違うんだけど、それはまたいつか。
お読みいただきありがとうございました!
本エピソードはもう少し後で出す想定だったのですが、構成を考え直してこのタイミングにしました。説明的で淡々としすぎているような感覚もあるのですが、やっと明らかにできた部分もあるのかな…?と思います。
まだまだ謎多き鼓ですが、次回から彼の回顧の章に入る予定です(そしてまだ終わっていません汗)。
来週水曜日の更新です。