鼓を廻る女性たち
彼は、私の世界を開いてくれた人だと思う。彼をこの目で見てからずっと。
*
一体、先刻目にしたのは何だったのか。これまで何度も鼓の繰り出す超自然的な現象を目の当たりにしてきたが、10年前に去った人物が突如現れた窟から出てきたなど、すぐに飲み込めるはずもなかった。
動揺する気持ちを抑えながら手分けして夕食を拵える。希に至っては初めて実践した忍術について触れることもできないでいる。
「ただいま」
鼓の連れた夜の外気が、部屋に立ち込めた夕餉の香りを薄くする。
2人揃って出迎えの言葉を言いそびれた中、鼓は鍋の中で盛り付けを待つ料理を嬉しそうに眺めている。
これまで通りの鼓がいる。瑞もこの違和感に気づいているのだろうか、あるいはいつからかとっくに抱いていたのだろうか。己に戻ったばかりの記憶が、昨日のことのような鮮やかさで脳内に流れる。
変わらない鼓。そう、変わっていないのだ。
「鼓は、年を取らないの……?」
意志の真横に積もった疑問を、恐る恐る尋ねる。単なる思い過ごしかもしれない。しかしこの疑問が当たっているとするならば、鼓が頑なに触れさせてこなかった秘密であるならば、その先に辿り着く新たな真実は何なのか──。鼓動が速まり、手汗が滲む。隣の瑞を伺う余裕はない。
*
「明ばっかりずるいです!私だって坊ちゃん方の成長した姿をこの目で見たかったのに!」
西の剣山と同じように、何の変哲もない東のそれの山肌に現れた窟から女性が姿を見せ、早々に鼓に文句を浴びせた。明とそっくりの見た目をした彼女は灯。紺鼠色の髪を肩より上で綺麗に切り揃えており、瞳は月の光を宿したような柔らかな黄色をしている。灯に言わせてみれば「明が私にそっくりなんです!」とでも言いかねないが。
「悪かったよ。こっちにも着いてくるかと思ったんだが、流石にちょっと堪えたみたいだ」
「……当たり前です。岩からこんな美女……たちが出てくるなんて誰も想像できないですから」
冗談を言ったつもりが、ははっと笑って、そうだな、と返されたものだから拍子抜けしてしまった。しかし久しぶりの再会に、灯のお喋りは止まらない。
「今日はまだ望坊ちゃんの施術前では?」
「この後吸えるか分からないからな」
胴乱から徐に煙草を取り出し、吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出す。
「吸い始めの頃は咳き込んでいましたのにね。時の流れを感じます」
「こんなところでか」
再びからりと笑ったが、心からのものではないことは、何年離れていようとも灯には手に取るように分かる。
「……全ての選択は、貴方様の味方です。隠し通すことも、一切を打ち明けようとも」
「まだ悩んでるよ。言うべきなのかどうか。これまで言わずにいたことは間違っていたのかどうか。……ただ考える度に思い知らされる。
──どれだけの力を持とうとも、俺が俺である以上、ずっと非力なままだった」
短くなった煙草を消してから、また来るよと山を後にした。
鼓を見送った灯は、彼の進んだ方とは逆を一瞥する。悲痛さを帯び、睨みつけるように。
煙が天へ向かって伸び、風に乗ってゆらゆらと、雲に紛れて形を変えながら運ばれていく。目を凝らしても捉えられない距離まで進んだのを見届けて、灯も跡形もなく窟と消えた。
*
「今日は幾分、早いこと……」
紫煙が1人の女の掌の上に集まり、胞子の形を成して止まった。彼女がいるのは陽の光が降り注ぎ、木々や草花に囲まれ、澄んだ水を湛えた小川が流れる空間。
「いいの。きっと今までも、それで良かった。秘めることで守れるもの、秘めることでしか護れないものがあるのだから──。
でも、とうとう貴方も決めたのね……」
手中の胞子をしばし眺めてから、玻璃の箱の中へと収めて言った。
「非力なのは、私の方」
誰に向けるでもなく零した一言を残し、暗い森の中、小川の流れ出る先へと歩いていった。
お読みいただきありがとうございました。
お陰様で2,900PVを突破しまして、3,000も見えてきて嬉しい限りです。
灯というキャラクターについてはあまり細かい設定はしていなかったので、書きながら肉付けをしています(粗いですが)。
明とはある種正反対になって面白いなと思います。
さて、鼓の核心についに触れましたね。
進む先は、あとは彼次第です。




