鼓回顧録/鋭さの奥底
里で原因不明の火事が発生したと知ったのは、走り始めてからすぐだった。
森の中を駆けながら、錦はしきりに呼び合いの笛を鳴らしていた。これまで聴いた中で最も甲高く、叫ぶようにも聴こえる音だ。風の中を、幾つもの音が交錯しては消えていく。
口から笛を外すと、神妙な面持ちで「榮、鼓と先に行っててくれ。すぐに合流する」と告げ、澄んだ一音を吹き鳴らした。数秒後、遠くから似た音が返ってきたのを、鼓はなんとか聞き分けた。
「聴こえたか」
「はい」
「あれは希の鳴らした笛の音だ」
希は無事だ。その事実を知り、ようやく少しだけ落ち着いた。
「何かあった時、時間を置きながらあの音を鳴らすように教えてある。それを辿ってくれ」
「……?はい」
違和感を覚えながらも答えると、錦は穏やかな笑みを見せた。これまで、彼が鼓に向けてきた笑顔は眼光が鋭いまま口角を上げていたり、いたずらっぽさを含んだりしたものだったから、この時の安堵したような表情は忘れがたいものとして鼓の記憶に刻まれている。
次に榮と頷き合うと、1人進路を別にした。
「望と、瑞は」
固く口を結んだ榮は、返事をすることなくただ前へと突き進んでいく。最悪の事態を覚悟しておかなければならない状況に、また動揺がぶり返す。
空気に焦げ臭いにおいが混じってきた。数分おきに、希の鳴らす笛の音が届く。近づいているはずなのに、その音はどんどん弱々しくなっていくのが分かり、焦りが募る。
日が天中へと昇った頃、隣の山へと着いた。肩で息をしながら里を見下ろす。里を囲む結界は消え失せていた。境界に阻まれることのなくなった火の手は里に留まらず、周囲の山林を焼き尽くしにかかっている。人の姿は一向に見えてこない。今の惨状を、里以外の者も目にすることができてしまう。外部に忍の里の存在を知られては、この先の里、ひいては忍自体の存続にさえ関わってくることも考えられる。
「すぐに川から水を……!」
「鼓」
鼓を制した榮は一つ、深呼吸をしてから、柔らかな笑みを浮かべて鼓を見た。
なぜ、どうして2人して、そんな表情でいられる?この惨劇の最中に。
「お願いがあるの。どうかあの3人を、この先あなたのつくる郷で見守ってほしい」
「何を……言ってるんですか」
想像だにしていなかったことを言われ、体が硬直した。
「命懸けのことなら俺が引き受けます。もうとっくに分かってるんでしょう。俺は多少のことで死にはしない。生きなければいけないのはあなた達だ」
声をわななかせながら絞り出す。懇願にも近い。対して榮は首を横に振るのみだ。
「結界は……結界なら何度だって、どこにだって俺がなんとでもします……だから──」
膝から崩れ落ち、拳を握って身体を支える。爪の間に土が入り込む感触がする。
榮はまた、大きく息を吸ってから、落ち着いた声調で話し出す。間近で捉えた空気の振動に気付かないはずはなかった。彼女も震える声を押し込めている。
「里がもし何者かに狙われたのなら、目的は何であれ、里の持つ情報を決して外に漏らさないことが、忍としての私達の役目なの。
……たとえそれが最後の務めだとしても」
「あの3人にだって、あなた達が必要です」
「私達はこれから禁忌を犯す」
その一言に、時が止まったかのようだった。
「言ったでしょ。里の情報を流出させないことが役目だって。それはあの里の全ての忍が負う責務。子供だって例外じゃない。
だけど、もしもあの里に何か危険が及ぶようなことがあれば、私達は命を賭してあの子達を逃がすって、錦と決めてたの。どうしようもなく身勝手な首長と妻だけど。
──だから、その報いは受けなくては」
嫌だ、そんなこと受け入れるなんてできない。そんなに身勝手だと分かっているなら、自分達が生き抜くことまで貫き通したっていいじゃないか。忍としての定めを守り抜く方を選ぶのか。あの笑みは、死を覚悟した者の表情だったなんて。
こつん、と額に軽い衝撃がした。榮がしゃがみ込み、鼓のそれに合わせている。
「あなたは愛されてる。これからも愛されることに怯えないで。愛することもためらわないで。あなた自身を愛することに対しても」
だからあの子達を託すの。他でもない、あなただから──。
「なんだ、まだウジウジしてんのか」
音もなく現れた錦は、呆れた顔をして鼓を見下ろした。
「錦さん……」
「忍の痕跡を消すのが余所者の炎ってのが気に食わねえが、まあせっかくだから利用させてもらおうか」
「お願いです。国の仕事だってすぐに話がつく。2人とも、生きてくれ……」
ぐんっと胸ぐらを掴まれ引き寄せられた。幾度も肝を冷やした瞳に、鼓自身が映っている。
「今度、曾祖父さんの話聞かせろや。俺、会ったことねえって言ったよな。そん時はその他人行儀な喋り方も無しだ」
「錦さん、俺……っ!」
襟元を掴んでいた手が離れた直後、後頭部に回り、耳元で吐息混じりの掠れた声を聞いたかと思うと、今度は勢いよく突き飛ばされた。立ち上がった錦は背を向け、「俺らの子を助けられねえなんてことがあったら」そこまで言ってから息をつき、目線だけ鼓に寄越した。
「殺してやるよ」
炎を反射した瞳は、赤褐色に燃えていた。
お読みいただきありがとうございました。
彼らは忍であり、忍として生き抜くことを選んだ父と母であり、誰よりも里を愛した者達ということを、ここに残しておきたいと思います。
回顧録編は残すところあと2話となりました。
次回も水曜日更新です。




