【二話】乙川さんは使用人です。②
「わたしはあなたの使用人です。陽太郎さま」
と、乙川さんはちょっと前のめりになって、僕に言ったらしいのだ。
僕はとっさに意味がわからなくて、リビングに棒立ちになりながら、彼女の言葉を頭のなかで反芻していた。
シヨウニン・・・。試用、私用・・・。いや、使用・・・かな?
使用人なら、たぶん、雇われて働く人のことだと思うんだけど・・・。
会社で働く人は会社員だけど、使用人は個人だったり家庭を相手に契約を結ぶものだと聞いたことがある。
僕は少し冷静になって、
「僕の父に雇われたってことかな?」
と、訊いてみた。
実は以前、僕が中学生にあがった頃だったと思うけれど、家を空けることの多くなった父から、家政婦さんを雇ってみてはどうかと打診されたことがあったのである。
いわゆる家事代行サービスと呼ばれるもので、一週間に数回家に来てくれて、料理を作ったり、掃除をしてくれたりするらしいのだ。
父に頼ることが好きでなかった僕は、そもそもすでに家事のいっさいを自分で行っていたし、不要と判断したつもりだったのだけれど。
あれから、やはり心配になった父が、乙川さんを雇ったのだろうか?
しかし乙川さんは首を横に振って、
「いいえ、雇われているというわけではございません」
「うーん。となると、どういうことなんだろう?」
僕は、乙川さんを立ったままにさせるのも忍びなく、椅子に座ってもらうと、
「まあ、それはそうだよね。だって乙川さんは学生だもんね。僕と同じクラスの学生だ。学園の合間のアルバイトっていうならともかく、本格的な仕事は早いよね」
と言った。乙川さんはこくりと頷き、「はい、仕事ではありません」と返してくれる。
それで僕は気持ちが楽になった気がしたのだけれど、僕が落ち着いたのを見計らって乙川さんが話してくれた内容は、驚愕するものだった。
僕は、話をききながら冷や汗が止まらなかった。
乙川さんが言うには、彼女は父に雇われたのではない。
彼女は父に【購入】されたのである。
*
「つまり、こういうこと? 乙川さんは、僕の父に購入された・・・。しかもそれは、特定の期間ではなく、生涯だって言うのかい」
乙川さんから一通りの話をきいた後、僕がおそるおそるそう言うと、彼女は、「はい、そうです」と、あっさり頷いた。
頷いて、しまった・・・。
彼女の話してくれた内容を要約するとこうである。
彼女の実家、乙川家は江戸時代から続く稼業を持つ。
それは、使用人稼業である。
使用人といっても単に家事の代行をするばかりではない。一度仕えた家、人を、あらゆる側面から生涯に渡って支えることが、乙川の家の役割である。
乙川家に生まれたものは、幼いころから教育を受け、やがて十五の歳を迎えると、特定の家や個人に仕えるために外に送り出されるのだ。
彼女、乙川さんも十五歳を迎えて、外に送り出されることになった。
彼女のオーナーとなったのは、汐留雄一郎、つまり僕の父であり、汐留家である。
契約の開始は、一週間前の土曜日、つまり四月二十日であった。
しかし、受け渡しの場所で待っていても、父は現れなかったのだ。
そこで彼女は、父の所在を探したけれども、これが一向に見つからない。
やむを得ず、乙川家に連絡すると、汐留雄一郎には息子がいるということがわかった。
その息子・・・つまり僕のことだけれど・・・は、鎌倉の高浜学園二年生であることもわかった。
そこで乙川さんは僕を探すために、高浜学園に入学したということである・・・。
・・・このような話をきいても、僕にはまったく現実感がなかった。
使用人とはいうけれど、実態はちょっと違うのではないだろうか?
言葉はすごく悪い・・・だけど僕は、彼女の話をきいて思ってしまった。
これは、人身売買じゃないのか?
僕は、身が竦む思いになって、机に乗せていた腕で頭を覆ってしまった。
これは非常に、人道的に、倫理的に、問題のある行為なんだ・・・。
しかもそれが遠くの海外での出来事じゃなくて、日本の、しかも僕の父が、まだ年端もいかない僕と同じ歳の少女の身を買ったというのである!
あの父・・・。たしかにやることなすこと破天荒な父親ではあるけれど、犯罪行為にだけは手を出さないと思っていたのに・・・。
「陽太郎さま・・・」
と、乙川さんは僕を心配して声をかけてくれるけれども、それは大間違いだ。
彼女は被害者だ。そして加害者は僕の父・・・。
僕は、自分がなんとかしなければという思いに駆られていたけれども、まずは父に電話した。
しかし電話はコール音を返すだけで、繋がらない。
父はもともと連絡のつかない人なのである。
僕は、
【これを見たら至急折り返すこと。乙川月子さんのことで話がある】
とメールした。そして、乙川さんに向き直り、
「その契約だけど、解消することはできないのかな?」
と言った。乙川さんにとっても、そして僕にとっても、そうした方がいいと思ったのである。
しかし乙川さんは、視線を膝に落とし、
「わたしでは、お気に召しませんでしたか・・・」と呟くように言うのだった。
僕は、「そうではないよ」と一応のフォローはしつつ、
「そうじゃなくて、乙川さんにとっても、こんなことは嫌なんじゃないかな。だってきみにも人生があるわけでしょう。将来やりたいことや、なりたいことがあるはずだよ。人の一生を、こういう契約で縛って、というか・・・そうじゃないな。なんというか、うまくいえないけれど、きみの人権を、まったくの他人にお金で買われるということは、あってはならないことなんだ。人は、その生涯について、自分で責任を持つべきだし、そしてその責任を果たすかどうかも、本来自由であるべきと僕は思うんだよ」
と、しどろもどろになりながら、説得しようとしたのだ。
しかし、乙川さんは、
「わたしは、ずっと、誰かにお仕えすることを目標に生きてきました・・・。わたしは、陽太郎さまにお仕えできることを、嬉しく思っています・・・」
と、返すのである。
というより、僕が言わせてしまったのだろう。あまりにも綺麗な言葉すぎて、本心とは思えなかった。
なんというか、彼女の立場にたってみると、僕の父や僕・・・つまり汐留という家が買ったのにも関わらず、いざ家にきてみれば、そこで契約の解消をするとかいろいろと言われて、圧迫の面接を受けさせられているような感覚なのではないだろうか?
僕は、「じゃあ、イエスかノーで答えてほしいんだ」と前置きして、「契約の解消はできるのかな?」と訊いた。
すると彼女は、「ノー」と返事する。しかしそれに続けて、
「ですが、契約において、わたしを不要と思われたのでしたら、そのように命じてください・・・。そうお命じいただければ、わたしは陽太郎さまの前から、今すぐ姿を消します」
と、なんだか涙ぐましいことを言うのだった。
これには僕も焦って、「いや、そんなことはないよ」と手拍子で答えたのだが、すると乙川さんは安心したように息をつき、
「よかったです」
と、微笑むのである。
これまで気後れしてかどちらかというと硬い表情だった彼女がとつぜん見せたその微笑みは、あまりにもいじらしいというか、可憐な花が開いたようであり、僕は毒気が抜かれてしまった。
そして、やっぱり乙川さんは、誰かに仕えるとかそういうのじゃなくて、自由であるべきだと思ったのだ。
野原に咲く花のように。