【二話】乙川さんは使用人です。①
★一話あらすじ
僕、汐留陽太郎は、文化祭に展示する写真のテーマを探していた。
そんなある日、乙川月子という少女がクラスに転校してくる。
乙川さんは転校初日から、そのかわいらしさで学園中の話題をかっさらってしまった。
一方僕は、鎌倉で部員のみんなと一緒に写真を撮っていた。
その帰り道、トラックに轢かれそうになった僕だけれど、誰かに背後から押し倒されて助けられる。
助けてくれたのは転校生の乙川さんだった。
自宅の扉の鍵をあけて入ると、「さあ、どうぞ」と、外に言った。
待っていたのは乙川さんで、彼女は「ありがとうございます。お世話になります」と腰を折る。
その所作もそうだけれど、彼女はやたらと丁重というか、玄関ホールにあがったあと、体の向きを斜めに変えて、土間の端に靴を揃えていた。
僕はそんな乙川さんの姿を見て、なにもそこまでしなくても、と思うが、あまり親しくもない同級生の家に行くというのは、それなりに緊張するものなのかもしれない。つい固くなってしまうのだろう。
やはり、すぐ傍だったとはいえ、いきなり自宅に招いたのはやりすぎだったろうか。
しかし彼女は、腕に痛々しい擦り傷を負っていたのである。
つい先ほどのこと、僕は道端でこの乙川さんに押し倒された。道端に仰向けで寝ころび、彼女の下敷きになっていた僕は、しばらくじっと動けずにいた。
その時は、なんだか襲われているみたいだな・・・。と思ったけれども。
しかしふと我に返り、状況の把握に努めると、おそらく彼女はトラックに轢かれそうになった僕のことを助けようとしてくれたのではないだろうか?
そのことに気が付いた僕は、とりあえずお礼を言って、上から退いてもらったのだけれど、よく見ると彼女は腕から微量の血液を滴らせていたので、さすがに放っておくこともできず、自宅で手当てさせてもらえないかと申し出たのである。
僕は乙川さんをリビングに案内すると、
「悪いけれど、ちょっとここに座っていて。確かどこかに救急箱があったはずなんだ」と言って、床にクッションを置いてみる。
この家に女子が入るのは初めてのことだった。
なんだか僕も緊張するな・・・。
窓際のテレビの横、本など収納されている棚の引き出しを開け、中を掻き回しながらそんなことを考えていると、
「わたしは大丈夫です。それより、陽太郎さまにお怪我はございませんか」と、背後から声がする。
「いや、問題ないよ。乙川さんのおかげだね」と僕は言い、彼女のほうを振り返って、「ありがとう」とあらためてお礼を言った。
「そんな・・・」
と、乙川さんは首を横に振っていたけれども、それにしても、その呼び方は何なのだろう?僕は彼女が人と話しているところをあんまり聞いちゃいなかったけれども、みんなに対しても同じなんだろうか。
乙川さんは今、床に正座していて、僕の置いたクッションを膝に乗せている。背筋は伸ばしているけれども、なんだかぎこちない印象で、少なくともくつろいでいるという感じはない。
救急箱を探し当てた僕は、彼女の正面に腰を落としながら、
「もうちょっと楽にしてもいいんだよ」と言うけれど、
「はい」と返ってくるだけで、姿勢が崩される様子はない。
これはさっさと済ませた方がいいな、と思い、僕は救急箱から道具を取り出した。
たぶん、消毒液で脱脂綿を湿らせて、傷口を消毒してから、絆創膏を貼ればいいんだよな。
いや、それより水で傷口を洗うほうが先かもしれない。
僕は怪我をしても、大して処置もしないからな・・・。
そう思って悩んでいると、
「傷の手当を行ったほうがよろしいでしょうか」
と、乙川さんが言う。
ちょっと意図をはかりかねていると、「陽太郎さまのお手を煩わせることもありません」と続けるので、どうやら自分でやるということのようだった。
煩わせるというのは、どういう意味だっけ?
聞きなれない言葉に困惑しながら僕は、
「だったら、まずは傷口を洗ったほうがいいかも。洗面台は向こうにあるから」と廊下の方を指し示す。
すると彼女は「はい」と返事はするのだけれど、なぜだか一向に動く気配がない。
不思議に思った僕が立ち上がり、「洗面台を使っていいよ」と言うと、彼女も遅れて立ち上がって、
「それではお借りします」と廊下に出ていく。
僕はいよいよわからなくなって、何か間違ったかなと思う。
あるいは、やっぱり女子だから、僕のことを警戒しているのかも。
考えてみると、いくら怪我の処置だからといって、異性に肌を触られそうになるのは嫌だったろうし、彼女からすればなんとなく、僕に下心を感じたとしてもおかしくない。
これはどうやら失敗したらしいぞと考えていると、乙川さんが洗面台から戻ってきて、「終わりました」と言う。
見ると、彼女の二の腕に貼られている絆創膏が、制服の袖からちらと見えている。
大きな怪我ではなさそうなことに安心したけれども、なんだか女子の体に傷をつけてしまったことが悔やまれてきて、「怪我をさせてしまってごめんね」と僕は謝った。
さて、それで処置も無事終わり、乙川さんはすぐ帰るかと思った。
彼女からすれば居心地の悪い男子の家のはず、長居するわけがない。
ところが、彼女はリビングの四つ足机の横にいつまでも突っ立っているのである。
二度目のことなので、さすがに僕も要領が掴めてきたけれど、「玄関を使っていいよ」というのも変だし、そもそもそれは彼女に失礼ではないだろうか。
そこで僕は、「もう帰る?」と訊ねたのだけれど、乙川さんはその言葉に、「え・・・」とうつむいて黙りこくってしまったのだ。
なぜだろう?
また僕は何かやらかしたのかと思ったのだけれど、乙川さんは、
「陽太郎さま・・・。やはり、ご存じではないのですね・・・」
と呟いている。
小さな声に、よく聞きとれなかった僕が、「え、何が?」と聞き返すと、彼女はパッと顔をあげて、「あの!」と言い、僕の目をじっと見つめる。
唇をかたく結んだその顔には、何か決意というか、毅然とした表情が浮かんでいた。
乙川さんの見せるその表情に、僕はちょっと気圧されていたのだけれど、そんな僕に彼女はいきなり、
「わたしはあなたの使用人です。陽太郎さま」
と言ったのだ。
はっきりいって意味がわからなくて、僕は口を開けたまま静止してしまった。