【一話】乙川さんは転校生です。①
学園につづく坂を下って踏切を渡ると、相模湾を遠くまで一望できる高い堤防に出る。
ランプのつきはじめた細い車道を横切り、階段から浜辺に降りる。砂のざらざらした感触を靴底で探りながら見上げると、半分に欠けた月が見えた。
僕は、首からストラップで吊っていたカメラを構え、ファインダーを覗きこむ。夕暮れが過ぎ、陽の落ちた真っ暗な空にしっとり浮かぶ黄色い半月。薄い雲のかかったその月に向かって、カシャリ、ゆっくりシャッターを切っている。
この日課が始まったのは、1年前の夏、写真部の部長から与えられた課題がきっかけだった。
その当時、8月末のフォトコンテストに向けて、部をあげて準備を進めていた。僕も、そのコンテストに参加するつもりであれこれ撮影していたのだけれど、周りが次々と撮影のテーマを決めていく中、僕だけが何を撮っても納得がいかず、二の足を踏んでいたのである。
コンテストのテーマは「自然」だったのだけれど、僕はもともとこういう抽象的というか、大きすぎるテーマから具体的なイメージを持つのが苦手なタチだ。
このときも、「自然」というのだから、さすがに人物は入るだろうとか、でもさすがに人間の作った建造物はダメだろうな、とか、ではどうして自然発生的にうまれた人間の作った建造物は自然とは思われないのだろうか、などと余計なことばかりを考えてしまっていて、かなり周囲から出遅れていたのだった。
そこで部長に相談してみたところ、
「陽太郎、ビッグになりたいんだったら、大きなものを撮らないとね」などといって、月を撮るよう命じられたわけだった。
まあ確かに月はなんといっても星なのだから、地球に存在するあらゆる自然物よりも大きいわけだけれども、しかしそもそも僕は部長が度々いうビッグというのが一体なんなのかわかっていなかった。
それでも実際にカメラを月に向けてみると、これが思いのほか僕の琴線に触れて、それからなんと半年も撮り続けていたのだった。
たぶん、同じ月でも、シャッターを押すその瞬間によって、毎回別の形に写るのが面白かったのだろう。それに月は、一緒に写る他の景色もなんだか儚く輝いて見えたのだ・・・。
カメラを下げ、砂浜を歩き、階段に向かう。時折風が吹いて、潮の匂いを運んでくる。波がざわめいて、ざあっと音が鳴っている。
この日課は、最近では惰性のような気がしている。
数か月前、自分でもこれはと思える一枚が撮れたのだ。それはとりたてて特別な一枚というわけではない。ただ雲ひとつない空に浮かんだ完全な満月を映した一枚・・・。その一枚を撮ったことで、僕は自分の中から急速に熱が冷めていくのを感じた。そうするともう、それ以上のものが撮れない気がしてきて、いや、何かそれ以上のものが撮れてしまうのが怖い気さえして、このところ海岸に足を運ぶことが億劫であったのだった。
では次は何を撮るか? そう考えると、またテーマが見つからなくなってしまって、僕はなんだか一年前から全然成長していないんだなあとがっかりする。
・・・そういえば、月がだめなら、海はどうだろう? まあさんざん月と一緒に撮ってきたけれども、それは夜の海で、朝や日中の海だったら、また違う様相を見せてくれるのではなかろうか?
そんなふうに考えながら、横断歩道で信号を待っていたのだが、反対側の歩道、海岸線に沿ってカーブする歩道の向こうから、こちらに歩いてくる人影が見えたのは、その時だ。
この辺りは観光地だし、景観もいいから、深夜にも散歩に出かけている人をよく見かけるけれども、僕の目を引いたのは、その子が僕と同い歳ぐらいの女子だったからである。
などというと、いかにも年ごろの男子学生という印象を与えてしまうかもしれないけれども、僕はちらっとしか見ていない。しかし、ちらっと見たとき、その女子はなんだか目じりにきらきらした水滴を浮かべて、泣いているように見えたのだ。
僕はぎょっとして、まじまじとその女子のことを見つめてみたけれども、泣いているというのはどうやら気のせいで、むしろ無表情な感じがする。
感じがするというのは、横断歩道を挟んで向こう側を歩いていたので遠目だったし、運悪く数台のトラックが連続して通行したので、もう一度視界に捉えたときにはすでに、その女子はこちらに背中を向けていたためである。
そこでようやく信号が青になって、横断歩道を渡ったけれども、走っていけば追いつく距離の背中ながら、どうにも声をかける気にはならなかった。そもそも泣いているというのは僕の勘違いなのだと思うし、泣いていたとしてどうするのだろう? 僕にそんな、見ず知らずの女子の涙をぬぐってやる器量など、どこにもないのだ。
それで僕は自宅に向かって歩き出したけれど、道中、その女子のことがなぜだか頭から離れなかった。
何がそんなに気になるのだろう? 僕はわからなかったけれど、その女子のことを考えると、ふしぎと胸がドキドキしていることに気づくのだ。そしてハッとした。
写真に収めておけばよかった、と思ったのだ。