―― 第二話 ダメOL ――
桜の木にぬいぐるみを貸した少女の名前は、古護森 理利。
彼女は最近、時間があれば近所の大きな桜の木のところへ行っていた。
その桜には神様がいて、いつもお喋りしてくれるのだ。理利はそれが嬉しくてしかたなかった。
「……それでね、このごろお婆ちゃん、笑ってることが多くなったのよ。以前はずっとぼんやりしてたんだけどね、今はわたしがそばに行くだけでにんまりするの♪」
『お婆さんも自分を不安そうに見つめる人がいるよりも、嬉しそうな人がいる方が楽しいだろうからね』
「うん、でねでね、このごろはママも笑うようになってきたんだよ!」
『ほぅ……、それは良かったねぇ』
「以前はお婆ちゃんが夜中に突然大声出したときとか、ママ、こーんなシワよせてさー」
桜から少し離れた家の中で理利をモニター越しに見ていたトノは、突然の変顔に思わず吹き出しそうになってしまった。
今回トノが新設したのは以下の3つ。
・桜の周りに誰か近づいたら警報を出すセンサー
・桜の周りにいる人と話が出来るマイク(双方向)
・桜の周りをくまなく写すことが出来るカメラ
それらを家のパソコンで操作出来るようにしたのだ。
「女の鬼で……えと、なんだっけ?」
『般若かい?』
「そ! はんにゃはんにゃ」
(桜の周りに新設したセンサー・マイク・カメラ、すべて問題ないようだな……)
理利と他愛のない話をしながらシステムの動作チェックをしていたトノは、ふとモニターの横に置いてある写真立てに目を向けた。
その写真は、かつての幸せな時代のトノの家族写真だ。
作曲家としてもピアニストとしても成功したトノ。
歌手としてもダンサーとしても大成したヒメ。
そして音楽神の申し子と称えられた小学校高学年の娘。
三人とも、嬉しそうに笑っている。
今はもう……。
(まったく、何をやってるんだろうね私は……。ちょっとしたイタズラのつもりだったんだが……、どうしたものか……)
その時、ビュウという音とともに理利の服が風に煽られた。いつの間にか夕暮れとなり、黒雲も出ている。
『もう暗くなってきたよ、今日はそろそろお帰り』
「あ、ホントだ、こんな時間になっちゃってる」
『今日はくーちゃん持ってお帰り。夕立が来そうだし、濡れちゃったらかわいそうだからね』
「うん、サクラさん、また来るねー」
『ああ、気を付けてお帰り』
理利を見送った後、ふぅと息を吐くトノ。
「もし……、もし私たちに孫がいたなら、あの子くらいなのかもしれないね……」
家族写真のヒメを見つめながら呟いた。
その時、突然警告音が鳴り響いた。
「んん? センサーに反応? 誰だこんな時間に」
桜の木がある高台に続く階段を、会社帰りと思われる30歳前後のOLがヨタヨタ歩きで登ってきていた。
「はァっふぅッふぅッ……ふう……、あの子、なんだか木に向かって喋ってたみたいだったけど、大丈夫なのかしらね」
コンビニの袋を下げ、長い階段を登ってきたため肩で息をしながら、そのOLは遠くを走り去っていく理利を見ながら呟いた。
「ここは……、公園? 個人の敷地?」
しばらくきょろきょろと周りを見回していたが、ベンチを見つけると「まぁいいや……」と言いながら、フラフラと近づいて行った。そして「あぁ、すわれるところ……」とか呟きながら、ドサッと座りこむ。
よほど疲れていたようで、しばらく呆然となりながら桜の木を見上げていた。
「…………」
最初ぼんやりとしていたOLは、そのうち奇妙な感覚に囚われた。
見上げる桜の木が、まるで巨大な目のようで、じっと見つめられているかのように思えたのだ。
「何だろ……、木に……見られてる気がする……。あー、でもなんだかこの木に喋りかけてた、あのコの気持ち……わかるワ~」
不思議な感覚だった。見つめられているが不快な感じはなく、それどころか小学生の頃にいろいろ相談に乗ってくれた優しい先生の眼差しに近いものを感じていた。
OLはコンビニ袋から大量の缶ビールとつまみを取り出し、一人宴会を始めた。そして急ピッチで2本飲むと、3本目を開けながら喋り始めた。
「ねー、聞ぃーてー、あたしねぇ、今の仕事辛いんだー」
どうやら仕事の愚痴を吐き出す場所を探しているうちに迷い込んでしまったようだ。
「あたーしー、これでもイッショケンメーやってんだよー!」
言葉の内容の割りに、なんだか嬉しそうだ。
「でもどうしても上手く出来ないの……」
突然、泣きそうな顔になり、うつろな目でブツブツ呟き始めた。
「きゃはははは! でも限度があるだろ、ボケてんの? 私!」
さらに大笑いし始める。完全な酔っぱらいだ。
「バーカ、バーカ……、このダメOL……」
ベンチでうつ向きながら呟くOL。
そんな時、ポツ、ポツと雨が降り始めた。どうやら夕立のようだ。しかしOLは身動きもしない。うつろな目でそのままベンチに座り続けている。
「みんなの足引っ張ってばっかでさぁ~……、みんなの目が辛いんだー……」
彼女は見聞きしたことを即座に覚える短期記憶が苦手で、かわりに長期記憶が良いタイプだった。そのため過去のことをよく覚えていて、子供の頃は友だちと言った言わないの揉め事を起こすことが多かった。相手は覚えていないだけなのだが、彼女はバカにしてとぼけているだけと思ってしまうのだ。そして相手の方も因縁をつけられたと考え、お互いにアツくなって喧嘩となってしまう、というのが定番だった。
そのため場が険悪になるのが嫌で、何か問題が起きるとすぐに引き下がるようになっていた。そのせいで言いたい事をハッキリ言わないことが多くなり、溜め込む性格となってしまっていた。
「あーのセクハラ・パワハラクソ上司ー! なーにが『飲みに行くけど、ちったぁ付き合いなよ』だっつーの! 脂ぎった手でベタベタ触るんじゃねーよ! 周りの連中も止めろよ! ニタニタ笑ってんじゃねー!」
どうやら、かなりギスギスした職場で働いているようだ。
「こっちはボケた母親が夜中に徘徊して寝不足なんだよ! 寝てもすぐ悪夢で目覚めるしィ~、もお最低ー!」
さらに家庭でも気が抜けないようだ。
「そもそもオヤジ! 定年してんだから介護をちったぁ手伝えやゴルァ!!」
持っていた缶ビールを握りつぶしながら叫ぶOL。
「どーなるんだろアタシ……」
そしてまた突然うつ向いて、潰れた空き缶を見つめながらブツブツ呟き始めた。
最近の彼女はもう限界だった。
会社では母親の介護による寝不足から集中力がなくなり、自分でも信じられないようなミスを連発しているのだ。
最初はそれを誤魔化すため、冗談ばっかり言ってお笑いキャラを演じていたのだが最近はより過激になり、病ンデレ冗談キャラとでも言う状態になってしまっていた。
先日も、事務室の壁に掛かっていた鏡に向かい「こんなバカなミスをするのは、お前かー!」と叫んで頭突きをして鏡が割れ、流血の事態になって大騒ぎになった。
「真性の阿呆かお前はー!」
見ていた上司にそう怒鳴られたが、彼女自身、自分の行動が理解できていなかった。
胸の奥が苦しくて、別の痛みで苦しさを紛らわそうとしたのか、その後も過激なギャグをやっては皆に引かれる日々。
「ああぁ……、また…来た……」
強烈な自己嫌悪を伴う頭痛と吐き気だ。
こんなギャグはどうだろう?
借金を返してもらいに部長の家へ行くとメッセージを残して外出し、部長宅に立ち寄った痕跡を残し、山の中で自分の手足を縛り服毒自殺する。
ウケるだろうか? みんな笑ってくれるだろうか?
シャレにならない過激な妄想が止まらない……
また心の暴走が始まったのだ。
…あたしって、失敗ばかりの役立たず…
…いらないコ…
…自然淘汰は世の理よ…
…弱者は死ぬ…
…山の肥やしになればいい…
胸が苦しく、吐きそうだ。
…沈む…
…心が沈んでいく…
…止まらない…
雨の中、目を閉じて手を上に延ばす姿は、まるで水底に沈みながら水面に手を伸ばしているようだった。
…このままだと、衝動的に逝ってしまう…
…だめよ、残された父さん母さんはアタシより苦しむよぉ…
『あなたはなぜ……、どうして人の心配をしているの?』
突然、どこからか声が聞こえた。
『がんばっているキミのそんな姿を見るのは、私も辛いよ…』
『苦しみから得られることもあるけど、心が壊れるまで我慢しちゃダメ…』
『自分のことを役立たずなんて言わないで…』
不思議な声だった。優しくて落ち着ける響きがあった。
「……誰?」
『君は理想が高すぎて、頑張りすぎてるだけなんだ』
「…誰?」
『辛いなら、頑張らないで……、苦しむ君を見ている私も辛いよ』
「誰?」
『急ぎすぎないで……、わき道して楽しい苦労を探してみて。それを見つけたらキミは変われると思うよ』
「だれ?」
『また辛くなって迷ったら、ここにおいで。私はいつもここにいるから』
「だれなの!?」
叫びながら目を覚ましたOLは、しばらく状況が分からず固まってしまった。
「ふぇ?」
土砂降りの雨の中、泣きながら桜の木に向かって手を伸ばしている自分。意味が分からなかった。
「今の声は……」
周りを見ても誰もいない。しかしその声ははっきりと覚えていた。
「夢……?」
雨の中、立ち上がって桜の木に近づいたOLは、その幹に触ってみた。ザラザラとした木の感触は、これが現実のものだと主張していた。
ゴッ!!
思い切り頭突きしてみた。
「いたたた……」
うめき声を上げるOL。その痛みはこれが現実だとはっきりと自覚させてくれた。ということはあの声も……
しばらくそのまま桜の木に縋り付いていたOLが、ふと目を開けた。
「あぁ……」
雨が止んで朧気ながら月が出ていた。高台にあるその場所からは、綺麗な海が見えていた。
「……世界って大きいな」
そう呟いたOLの顔に、影は無かった。
「アリガト、桜さん……。またグチ聞いてね……」
帰ろうとしていたOLは途中で立ち止まり、振り返りながら笑顔で言うと、元気に歩き始めた。
クシャミをしながら帰っていくOLをモニター越しに見送った後、トノはしばらく動かなかった。
「なぁ……、もしあの子が生きていたら、今の娘さんくらいなのかなぁ……」
家族写真のヒメを見つめながら呟いた。
家族写真の3人は、幸せそうに微笑んでいた。
コミカライズ版
https://www.pixiv.net/artworks/68503235#1