―― プロローグ & 第一話 エイプリルフール ――
―― プロローグ ――
街を一望出来る小高い丘の上に、その桜の木はあった。
巨木ではあるが、なんの変哲もないソメイヨシノ。
赤とんぼが舞う季節、普段なら誰も来ないその場所に、珍しく人が来ようとしていた。
一見すると公園にも見えるその場所は、実は傍にある豪邸の庭の一部で、そこから老夫婦が出てきた。
『おじさま・おばさま』とでも呼ばれる感じの、品の良い二人。
ただおばさまは車椅子に乗り、やせ細っていた。
庭に出た二人を追いかけるように、ひとりの女性が走り寄って言った。
「おじさま、私が押しますよ」
「ん、あぁ、ヘルパーさん。……いや、かまわんよ、庭に出るだけだから」
おじさまは笑って答えた後、おばさまを優しく見つめた。
「だいじょうぶ……、今日は調子がいいの……」
おばさまは末期がんで認知症も進み、ほとんど寝たきりだったのだが今日は症状が落ち着いていた。
「そうですか? じゃ、ご用があれば知らせて下さいね」
ヘルパーの女性はそう言うといたずらっぽく微笑んだ。
「素敵なデートを、おばさま」
「あら、ふふ……」
おじさまはゆっくりと車椅子を押し庭を進み始め、やがて二人は桜の木の傍にやってきて、巨木を見上げた。
「家の庭にこんな良いところがあるなんて知らなかったわ」
それを聞いたおじさまは一瞬顔を歪めたが、すぐに笑顔になり「ああ……」と答えた。
おばさまが知らないはずはなかった。ここは自分たちにとって特別な場所。この木の元で家族や友人たちと掛け替えのない時間を過ごしてきたのだから。
認知症が進み、その記憶がなくなってしまったのだ。
「ここでクラシックとか聞きたいわね」
「いいね」
屈託なく話すおばさまに、笑いかけるおじさま。
「でも大きなスピーカーをここに並べるのもイヤよね。そもそも雨が降ったらたいへん」
「そうだな」
「ここで素敵な音楽聞くのってどうしたら良いのかしら」
「そうだね……、考えてみるよ」
二人は桜の木を見上げながら、いつまでも微笑んでいた。
季節は巡り、春を迎えた温かい午後、見事に咲いた桜の下でおじさまは地元の商店街の電気屋から説明をうけていた。
「普通のベンチに見えますがスピーカー内臓で、この庭石調の防水スピーカーと合わせて5.1チャンネルサラウンドを楽しめます」
桜の木の周りには、以前には無かったベンチや庭石、石灯籠が設置されていた。でもそれらは偽装された電子機器だ。すべてオーダーメイドで作られたそれらは、最高級の音響システムを備えていた。
「あと、このマイクでカラオケも楽しめますよ」
選曲やボリュームを操作するリモコンは、マイクも内蔵されている。
「それにしても……、すごいお庭ですねぇ。まるで公園みたいだ」
ベンチに座り説明を聞いていたおじさまは、試しにベートーベンの月光を流してみると、見事な重低音が響き始めた。
「良い音だ」
「ここで聞く音楽は最高でしょうね」
「ああ……」
「二人で聞けるなら最高だったのだがね……」
ひとりでベンチに座り、曲を聴くおじさまが呟いた。
おばさまが亡くなってから、もう二ヶ月が経とうとしていた。
―― 第一話 エイプリルフール ――
おじさまの名前は、隼野 征史郎。
今は作曲家だが、昔はビジュアル系バンドのキーボードを担当し、「トノ」の愛称で呼ばれていた。
おばさまの名前は、隼野 巳空。
旧姓は飛雌白 巳空でトノと同じバンドでボーカルを担当し、「ヒメ」の愛称で呼ばれていた。
トノはヒメが亡くなりひとりになって以降、どうしても曲を作る気にならず、特にここ数日は音響システムを入れた桜の木の前でただ音楽を聞く日々を送っていた。
そんなある日、いつものように桜のところに行こうとして、何かに気付いて立ち止まった。
「おや? 今日は先客がいるようだ……」
ベンチに小学校低学年の女の子がしょんぼり座っていた。
その時、トノは今日がエイプリルフールだということを思い出した。
それはなんでもない、ちょっとした気まぐれ。
家族を失った喪失感の反動もあったのだろう、軽いイタズラのつもりだった。
しかしそれは運命の分岐点。
それが彼だけでなく、たくさんの人を巻き込み、やがて多くの人の運命を変えることになるとは誰にもわからなかった。
トノはいたずらっぽくクスッと笑うと、マイクを取り出した。
『お嬢さん、そんな浮かない顔をしてどうしたの? 何事かお悩みかな?』
女の子は突然の声に文字通り飛び上がり、ベンチから飛び降りた。
「???」
すぐそばで声がしたのに、周りを見ても誰もいない。
「だれ?」
桜の木の向こう側に誰かいるのかと一周回ってみたが誰もいない。
『どこを見ているの? 私は目の前の桜の木だよ』
「ええええええ?!」
ベンチの下を覗いたり、突然振り向いたりしてみるが、やっぱり誰もいない。それなのに、すぐそばで声がする。
トノはそんな女の子を遠くの物陰から見て、イタズラの成功を確信した。
「本当にさくら……さん?……なの?」
『そうだよ、周りに誰もいないでしょう?』
「かみさま? さくらの?」
『う・ぁあ、そうだね』
「の……のろわない?」
『ふふ、のろわないよ』
「そっか……」
ふぅと息を吐く女の子。
「さくらさん、お願いがあるの!」
しばらくうつ向いていた女の子が、何かを決心したように喋りはじめた。
「わたしのお願い叶えてくれる?」
『そのお願いが……何かをしなきゃならないなら、残念だけど無理だよ。私はここから動くことができないんだから。でも……、悩みがあるなら言ってごらん。話すだけでも楽になるよ』
「あのね、お婆ちゃんがわたしのこと忘れちゃうの。以前はすごく優しいお婆ちゃんだったのに……。毎朝わたしの顔を見て『あなたはだぁれ?』って聞くの……。小学校であったこととかお話してあげるのに、ちょっと経つと全部忘れちゃうの……」
トノは末期がんで認知症も併発したヒメの闘病生活を思い出した。彼女も昨日のことを覚えていなかった。いや、それどころか幻覚を見て叫び、暴れることも少なくなかった。
一時期、大量の虫が体に付く幻覚が出たときは大変だった。「虫が、虫が!」と叫び「どうしたお前! 虫などおらん」と言うトノを「あなたは誰なの?! ここはどこ!」と叩き暴れた。
そのとき無理やり押さえつけようとしたトノに、ヘルパーの女性が言った。
「おじさま、そんなに強く手を握ってはダメです」
「そんなことを言っても、どうすれば良いんだ!」
「これは薬の副作用でちょっと混乱しているだけなんです」
そしてヒメに寄り添うように近づくと、やさしく語りかけた。
「虫はどこですか? 退治しましょ」
それからヒメが言うがまま、いない虫を取り続けた。
ようやく落ち着いたヒメが眠った後、ヘルパーの女性はトノに言った。
「おばさまは今、ほとんどの記憶を失っています。それは知らない人たちばかりの知らない場所に放り出されたようなものなのです。おじさま、子供の頃に迷子になったときのことを思い出してみてください。自分の居場所がわからず、怖いものが見えて混乱していたでしょう? そういう人には否定しないで優しく接するのが大切です。でないとわかってもらえない、悔しいという強い思いだけが残ってわけもわからず反抗的になってしまうんです」
それを聞いたとき、トノは衝撃をうけた。ヒメが怒り、暴れていた理由が見えた気がした。
「でね……、やさしかったお婆ちゃんが、とても怒りっぽくなっちゃって……」
ため息を付きながら話す女の子の声に、トノは意識を戻した。
『怒りっぽくなっちゃったのかい? それはたいへんだね』
トノは一度深呼吸をしてから話し始めた。
『きみのお婆ちゃんは迷子なんだね』
「え? まいご?」
『きみも迷子になったことがあるだろう? 怖いよね、迷子になるって』
女の子は、幼稚園時代に迷子になったときのことを思い出した。知らない所で知らない人たちに囲まれ。ものすごく怖くて泣きじゃくったこと。そしてお婆ちゃんが見つけてくれて手をつないでくれて嬉しかったこと。
『それにしても毎朝きみのことを忘れちゃうのか……、たいへんだね……。でも、それってちょっと楽しくないかい?』
「え?」
『だってそれなら毎朝、新しくお友だちになれるじゃないか。はじめましてってご挨拶して、私はあなたが大好きなのよって抱きしめてあげれば良いんだ。毎朝新しい友だちが出来るってステキだと思うよ』
女の子はあまりのことにポカーンとしてしまった。
『お婆さんも、きみのことを忘れたくはないんだよ。でも、気がつくと大事な思い出が消えているんだ。でもそのくらい別に良いじゃないか、きみはお婆さんのことが好きなんだろう?』
「うん!」
『なら、その大好きな人と楽しくおしゃべりすれば良いのさ。きっと喜んでくれるし、きみも楽しいと思うよ』
「……ふうん」
『お婆さんは今、普通に動けるのかい?』
「ううん、ほとんどベッドにいるよ」
トノはベッドでぼんやりしていたヒメを思い出し、一瞬言葉に詰まったが、なんとか言葉を繋いだ。
『そう……、そうか……、それじゃあ良いことを教えてあげよう。お婆さんとお話するときは、手を握ってあげると良いよ』
「手を?」
『うん、長い時間でなくても良いんだ。優しく握ってあげてね。ヒトはね、心と身体で温かさを感じると、とても幸せな気持ちになれるから、生きる喜びが湧いてくるんだ』
「そっかぁ……」
女の子は迷子になったとき、見つけてくれたお婆ちゃんの手のぬくもりを思い出していた。
ふと桜の木を見上げた女の子は、満開の桜の花の間から木漏れ日がキラキラ光っているのに気がついた。それは女の子を優しく包み込み、まるで大きな温かい手に包まれているように感じられた。
「ねぇさくらさんは、ずっとここにひとりでいるの? お友だちはいないの?」
『私は動けないからね、しかたないよ』
「ねぇ、またここでお話して良い?」
『え?』
「もっともっとお話が聞きたいの!」
『それは……、良いけれど……』
トノは内心あわてていた。これはちょっとしたイタズラのつもりで、すぐにネタばらしするつもりだったのだ。
「ありがとう! また来るねー!」
『あ……』
とめる間もなく、女の子は元気に走り去ってしまう。
残されたトノは、しばらく呆然となってしまった。
「私は……、何をやってるんだ……」
自己嫌悪だった。
「あんな小さい子をだまして気休めを……。私はいつもそうだ。口だけはよく回る。いつも偉そうなことを言っているけど結局、自分では何もできない……。いつも間に合わない……」
ヒメが桜の木の下で音楽が聴きたいと言ったとき、すぐに家のスピーカーを並べれば良かったのではないか? 結局一緒に聴くことが出来なかったトノにとって、それは悔やんでも悔やみきれない心の汚点だった。
「期待だけさせて結局……、私は……、自己満足の為……」
このときトノは高額な音響システムがとてつもなく無駄な物に思えた。
「こんなもの……」
トノは手元のマイクをしばらく見つめ、スマホを取り出して音響システムを納入した電気屋に電話した。
「もしもし、隼野です。あぁ、先日庭に設置してくれた音響セットなんだが……、悪いが……」
そこまで言ったとき、先程まで話していた女の子が走って戻って来るのが見えた。
「あ、す、すまない、ちょっと待ってくれないか」
あわてて隠れながら言う。
戻ってきた女の子は、両手でかわいいクマのぬいぐるみを抱えていた。
「あのね、この子の名前はね、くーちゃんっていうの!」
女の子は、ぬいぐるみを桜の木に見せながら言った。
「さくらさん、ここにひとりでいるの寂しいでしょう? くーちゃんがね、一緒にいてあげてもいいって!」
そう言いながら一生懸命背伸びをして、ぬいぐるみを桜の枝の上に座らせる女の子。
「去年ママが入院した時、すごく寂しくて寝れなかったんだけど、くーちゃん抱っこしたらぐっすり寝れたの。わたしはもうおとなのおんなで、夜寂しくなんかないからね。だからくーちゃん貸してあげる!」
そして、えっへん!とばかりに胸を張った。
「またね!」
ぬいぐるみが少しの風では落ちないことを確認すると、女の子は元気よくまた走って行った。
「もしもし……?」
しばらく呆然としていたトノだったが、電気屋の声に我に返った。
「あ……、あぁ……待たせてしまってすまないね」
謝ると、トノはまるで何かに導かれるように言葉を続けた。
「庭の音響設備だが、周りにセンサーを付けてくれないか? 誰かが来たら、すぐわかるように」
この時、彼は運命の分岐点を通過し、進み始めた。それがどんな結末を迎えることになるのかは今はまだ誰にもわからない。
満開の桜の木から、音もなく花びらが舞い落ちていた。
コミカライズ版
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