Ⅱ.雷雨、束の間の休息
ピカッ
雷光が迸った。一瞬、中里文子の半身が不気味なほど鮮明に映える。
≪あんたはアンナ、アンナよ。何故って杏柰だから。杏柰は杏柰なの。アンナ……あんな……杏柰≫
脳内で不可解なトートロジーが木霊している。樹林と雨と土の匂い。
「……おい?」
何かを思い出しかけた。プルースト現象か。
風が吹き抜け、濡れた枯れ葉の絨毯が舞う。
「――丈夫か」
地べたに座り込んだまま馳せていたオレは。
「おい、大丈夫か?」
中里文子に肩を揺さぶられ、我に返った。
雨脚が強くなっている。草木の白露は雨水でかき消えているだろう。
「一旦、此所を離れよう」
文字通り風雲急を告げる事態に。頷いて立ち上がると、草叢に寝かせていたリュックサックを掴んだ。
それを見計らうと、中里はオレの手をとって樹海の奥に分け入った。
シャベルとスコップは置き去りにしたままだ。
リュックサックを両腕で抱えながら中里のあとを追っていると、彼女はふいに立ち止まって振り向いた。
「リュックは背負ったほうが楽だぞ。両手も自由になる」
「あ、ああ、じゃなくて、うん」
まだぎこちない言葉遣いだが『女の子』と思わせている以上、淑やかに可憐に振る舞わなければなるまい。
中里の髪から滑り落ちた雫が頬を伝った。こうしている間にもオレたちはどんどん濡れていく。
ロザリオロードは言うなればクロスロードである。中里は、四つに別れた十字路の右側を選んで先導した。
赤い実をつけた小枝が地面に落ちていて、ポキッと折れる。
ゴォーッ
迅雷と雨音に混じって、何処からか流水の音が近づいている。この辺りに水路があるのか……? きょろきょろと周辺を見回していると、
「こっちだ」
よそ見と捉えられたのか、中里はオレの腕を強引に引っ張った。
次第に豪雨になっていき、視界が霞む。生い茂ったジャングルをかき分け、泥濘をかわしながら畦道を踏みしめる。
ヘンゼルとグレーテルみたいだ。中里の背中を追っていると、ふとグリム童話を思い起こした。雨こそ降っていなかったが、樹海の森を彷徨い歩く幼い兄妹の情景が重なる。オレは今グレーテルで、頼もしい彼女はさながら兄貴だ。繋いだ手からヘンゼルの温もりが溶けだしていた。
草木を穿って林藪を抜けると、補正された道路に出た。
「この先に休憩所とバス停がある」
道先案内人に従うまま歩を進めると、見晴らしの良い大通りに、黄緑色の屋根の四阿が見えてきた。丸太を積み上げて造られた簡素なログハウスは、さながら三匹のこぶたの次男坊が拵えた建屋みたいだ。
木製の扉を開けると、中里は先にオレを中に入れる。
丸太を繋ぎ合わせたベンチに腰を下ろすと、ドレスに雨水がたっぷり浸透しているのに気づいた。
中里は自らのナップザックからバスタオルを取りだし、オレの頭にかぶせた。
「ひゃっ」
出し抜けに変な声をあげてしまう。
「風邪を引く」
立ったままオレを見下ろす中里は、ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、雫の滴るオレの髪と雨水の染みた肩をタオルで拭っていった。
「ふぎゃあ」
オレは咄嗟に頭上を押さえる。ウィッグがずれちまうだろ。
あたふたするオレに意も介さず、
「冷えて急速に体温が奪われると、体力も落ちる。倒れたらどうする気だ。女の子だろ。身体を大事にしろよ」
「いや、その」
オレは男の子であって。ってか、お前こそ女の子じゃないか、本物の。
しどろもどろになりながら顔を上げれば、中里の全身はずぶ濡れだった。こいつ、自分のことを顧みずに初対面のオレなんかのために。何故そこまで……?
今度はオレがリュックサックからタオルを取りだす番だ。
「オ、アタシは大丈夫だから」
バスタオルではないが、フェイス用のテリークロス。中里の髪から上半身にかけて、ドギマギしながら布地越しに両の指先をスライドさせていく。
ぐっしょり濡れたTシャツから、下着が透けて見えるではないか。ふたつの巨峰がブラジャーの線をくっきりと縁取っている。
吸水した手拭いをツイスト状に絞って、仕上げにもう一度、彼女の黒髪にタオルドライを施した。
「ありがとう」
中里はオレの隣に腰かけると、吐息を漏らし、艶然と口角をあげた。
優しげな目差しを向けられて、心臓が身震いした。俺っ娘のコイツにオレは今、男として惹かれているのか。『女』としてときめいているのか……? 男女の境目が解らなくなって眩暈がする。
性別が逆になっているのだ。俺っ娘に男の娘かよ、ややこしいことこの上ない。
「水も滴る良い女」
顔を見合わせて。どちらからともなく打ち笑んだ時、
ドンッ
ズシャ ガラゴロガシャーン
稲妻が轟き。刹那、外界からドラムとシンバルを同時に打ち付けたような爆音が響いた。




