ⅩⅠ.予兆
風雲急を告げ、事態が暗転したのは正午を過ぎてからのことだった。
黒紫に変色した積乱雲に覆われ、風雨が窓ガラスを叩きはじめると階下が騒がしくなった。扉がバタンと閉まったかと思えば、次いでバタバタと廊下を走る音も聞こえる。
作業を中断して一階に降りてみると、リュックサックを右肩に担いだ江藤が半身濡れながら、携帯ラジオを片手に玄関口から戻ってきたところだった。
背後に夕実も続いていて、髪から雨水が滴り落ちている。
「大変ですよ。南亜お坊ちゃま」
「何だって」
当主と家政婦は周章していた。
「あの。どうしたんです」
俺の問いかけは果たして、この場でどれだけの意味を持つのか。
「この嵐で地盤が滑り、ふたたび崖が倒壊したようだ。路線バスのルートが塞がれて、走行中のバスが生き埋めにされているらしい」
沸騰する高浦を鎮めつつ、南亜が半身で応じた。
やはりか。ある程度予測できていたとはいえ、俺は息を呑んだ。一度あることは二度ある。
「ゴンドラリフト……」
ふいに背後から声がした。
「杏柰……!」
覚束ない足取りで杏柰が玄関先に現れた。
「何となくだけど、リフトがあったような……気がしますの」
抑揚のない声で杏柰が言葉を紡いだ時。
ピカッ
雷光が迸り、一瞬、杏柰の顔が青白く光った。
「あっあぁぁ……」
頭を押さえ、杏柰はくずおれる。
「杏柰!」
俺は駆け寄って抱き起こした。
「大丈夫か」
頭痛がするのか、目蓋を閉じて両手でこめかみを押さえている。
「貴女は……」
俺の腕の中にすっぽり収まった姫様は、やおら双眸を開き、恐る恐る俺を見上げた。僅かだが、瞳に生気が宿っている。
「中里文子だ。ピオーネ森の中で君と出逢った」
俺はまっすぐ杏柰の瞳を見つめた。
「杏柰君は休んでいたほうが良い。どのみち暫くは帰れないんだ。中里君、彼女を頼む」
寝室に戻るよう南亜に促され、俺は杏柰の手を引いて玄関横の階段を上がった。
三階に着くと、真ん中の部屋の扉を開けて杏柰をベッドへ寝かせる。
彼女が差し出してきた細い腕を、両手で包み込むように握った。
完全に快復するまで休養させて、俺のバイトが終わり次第、一緒に村を降りて病院に連れていくんだ。それまでどうか持ちこたえてくれ。
「俺が守ってみせるから。絶対」
グリム童話の世界から抜けだした、お転婆なプリンセス。
「今はただ、ゆっくり休めば良い」
愛しい手を離し、寝室を出ようとした時。
「中里さん……? ありがとう」
蚊の鳴くような儚い杏柰の声が届いた。
忘れてしまったのならココからはじめれば良い、もう一度。いや、何度でも。俺は杏柰とはじめたい。
これ以上寝室に長居すると、歯止めが効かなくなりそうだ。振り向かずに退室し、そっと扉を閉めた。
何故だろう、俺は胸騒ぎがしていた。大切なモノが失くなってしまう、無性に嫌な予感が。杏柰の体調と記憶喪失は無論、不安の要因なのだが。それだけじゃない、もっと別のモノ。豪雨が警告音に聞こえ、見えない力によって俺たちは意図的に閉じ込められ、得体の知れない悪意がパックリ口を開けて呑み込もうとしている。そんな妄想が脳裏を巡り続けていた。
階梯を降りていく途中で、リュックを背負ったままの江藤と夕実が昇ってきた。纏めた荷物を持って、三階の自室に戻るのだろう。ふたたび彼らも葡萄館に籠城せざるを得なくなったようだ。
妙に余所余所しい夕実は、廻り踏板で俺と鉢合わせると露骨に目を反らす。
すれ違い様、江藤がギロリと俺を睨みつけた。
こいつ……?
一階に戻れば、玄関には誰もいなくなっていた。
「だから言わんこっちゃないんですよ」
突如、苛立った家政婦の重低音が響き渡り、ビクッと身構える。
薄暗い廊下の奥から、二つの影が蠢く。
「しっ。声が大きいよ優紀」
当主が宥め、何やら談合している。
咄嗟に俺は気配を殺し、階段の死角に身を隠した。
「私は反対したじゃありませんか。やはり邪魔者は追い出すしか――」
「いや、どのみち事が明るみになるのは時間の問題さ。顔を知られたからには、このまま生かして返すわけにいかない。いっそ彼らの口を封じるには、むしろ――。それより急いだほうが良いな」
鉛色の雷雲は既に葡萄館一帯を包んでいた。
封じられた紫の塔に瘴気が立ち込め、噎せ返りそうになる。
吹き荒れる雨風に伴って、玄関扉が小刻みに震えている。
心臓が早鐘のように鼓動を刻み、ドクドクと脈を打つ。バリトンボイスとテノールボイスが交互に木霊し、俺は呼吸を止めて戦慄した。




