Ⅷ.葡萄館の裏事情
「ブーダゥはペルシャ語で葡萄のことさ」
食堂のテーブルに戻ると、江藤が唐突に話しはじめた。
「葡萄のはじまりはペルシャ帝国のヴェルガーナ地方と云われている。ブーダゥと呼ばれた品種は、日本に広まった後に〝葡萄〟の字をあてられたというわけさ」
身ぶり手振りを交えながら、賢しらに蘊蓄かます江藤。
「それにしても美味しそうなシャンデリア。葡萄の実が落ちてきそう」
「ああ、まったく。館の主人は素晴らしい趣向をお持ちだ」
夕実が天井を仰ぎ、江藤も首肯したところで、食後の珈琲を運んできた高浦が、
「南亜お坊っちゃまの旦那様ですよ、こんな趣味の悪い特注品を職人に作らせたのは」
不機嫌な口調で割り込んだ。
「趣味が悪い?」
彼なりのおべっかのつもりだったのか、面食らう江藤。
「あまり葡萄の話題を口にしないでくださる。味はともかく、私は葡萄が大嫌いなのですよ。集合体恐怖症でね」
江藤と夕実のデミタスカップに焦げ茶色の液体を注ぎながら、高浦は顔を歪ませた。
「シャンデリアは粒が大きいからまだしも、本物の葡萄は触るのも嫌なの。あのブツブツを見ているだけで吐き気と蕁麻疹を催し、ぐちゃぐちゃに潰してやりたくなるのですよ」
ブルドッグを彷彿させる二重顎が、情感の起伏にあわせてプルプル震えている。
あまりの醜さに、俺は直視できなかった。
「優紀の集合体恐怖症は、ほとんど病気だよね」
続いてダイニングに入ってきた南亜が、苦笑まじりでフォローに応じる。
「優紀がこの通りなので葡萄が食卓に上ることはなく、僕らは葡萄を口にしたことがないんだ。あまつさえ優紀は下戸だからワインすら飲めない。滑稽だろう? 葡萄館の住人ともあろうものが」
母親は料理をしてこなかったのか。俺が疑問に思っていると、
「僕の両親は南蛮貿易商で常に海外にいたから、幼い頃から甲斐路家の台所は優紀が担ってきたんだよ。僕たちの邸宅は、両親の仕事の都合で沖縄にあるんだ。日本の果実酒を海外に流出させるために、両親は葡萄村の一角に土地を買って別荘を構え、貯蔵庫を完備してワインを熟成させた。ほとんど趣味の範疇だったけどね。彼らが日本に帰ってこられない時は、僕と優紀が沖縄から飛行機に乗って山梨まで通い、葡萄館に寝泊まりして一ヶ月に一度、定期的にワインを管理していたんだ」
昨夜、見学に行った葡萄塔のコンプレッサー式ワインセラー。彼らは盗難防止も兼ねて、温度管理のチェックをしていたわけか。
「僕と優紀は葡萄に思い入れがないからね。両親には悪いけど、彼らの死後は邸宅を手放すことに抵抗はなかった。いかんせん、今後も沖縄から此処まで泊まり込みで通うのは少々しんどい。早々に買い手も見つかったのは良いんだけど、これがまた紆余曲折していてね」
南亜は眼鏡のフレームに指をかけ、そこで一旦、言葉を切った。
「そもそも葡萄村の名所である葡萄畑の地主は、ミッドナイトビューティー製薬という化粧品会社の社長、月見里白峰氏なんだ」
月見里白峰。気のせいか、南亜の発したフレーズに、杏柰の目が僅かに見開かれた。
白峰氏は長年、葡萄樹液から抽出したエキスで化粧品開発に取り組んでいたが、歳を召されて隠遁することになったらしい。葡萄畑は普段は立ち入り禁止にしていたそうだが近々、観光地として公にし、全国各地から葡萄狩りに訪れる者を募ることにしたと言う。いずれは葡萄以外の果実のハウス栽培も手掛け、年間通して繁盛させる心積もりだそうだ。
「宿泊施設のない村に、日帰りできない旅行客を泊めるペンションとして、打ってつけだったのが葡萄館というわけさ」
艶やかな黒髪を靡かせ、南亜は両手を大きく広げてみせる。
ベストタイミングで一致した需要者と供給者。お互い、闇夜に提灯だっただろう。
「白峰氏には三人の息子がいてね。長男の神紅、二男は婿養子に入った妃安芸人、三男は信濃。この中の一人を会社の跡継ぎにして、同時に葡萄館のオーナーにする予定らしいんだ。三兄弟の内、最も秀逸で白峰氏に可愛がられてきた末息子の信濃氏。後継者は彼に決まりそうだったんだけど……」
「この件に関して長男の神紅は諦観気味ですが、二男の妻である妃仁菜――通称クイーンニーナ様が義弟に継がせるのを烈火の如く怒って、揉めに揉めているのですよ」
高浦が浅黒い頬に太い手を宛がって言った。
「軋轢が生じた兄弟同士で、オークションをはじめてしまってね。母屋に離れも込みで、ウチのほうでは二千万に定めて売りに出しているんだけど。それ以上に最も高い額を積んだ者が葡萄館を買い取ることになって、未だ正式な買い手が決まっていないんだ」




