Ⅱ.残された『アンナ』、或いは――
オレには五歳以前の記憶がない――
目覚めた時に、オレの顔を覗き込んでいたのは見知らぬ男女だった。滝川を漂流し、長野の陸地の付け根に流れ着き、オレは傷だらけの身体で倒れていたのを発見されたそうだ。長野県と埼玉県の県境に位置する近くの病院で介抱され、一通りの検査を受けた。節々の損傷が激しく、体力は著しく消耗し、文字通りに三途の川を彷徨った身体は、奇跡的に一命を取り止めていた。
だが――。頭を強く打った衝撃で、それまでの記憶の一切が喪失していたのだ。生まれ育った場所も、一緒に暮らしていたであろう家族のことも。何一つ思い出せなくなっていた。
「あなたの名前は?」
看護婦が聞いた。
「――アンナ……」
≪……アンナ、杏柰――!≫
甦る、女の声。滝壺に墜ちる寸前、何者かの叫び声がしたのだ。耳の奥にへばりついているのは、『アンナ』。
しかしそれ以前の記憶を辿ろうとすると、強烈な頭痛と眩暈に襲われた。
もうひとつ憶えていたのは、その日がオレの五歳の誕生日だったということ。
名前と。逆算した結果の生年月日と。性別だけがオレに残された確かな手掛かりとなった。
オレの第一発見者であり、病院に運んでくれた男女。子供のいない神香林夫妻は、退院後のオレを養子として引き取り、育ててくれた。
記憶喪失とはいえ、生活自体に支障はなかった。日常に必要な知識は養父母が教え直してくれたし、未就学児だったのも幸い、小・中学校の勉学は一からはじまり、研鑽を積んだ。
高校を卒業する年に、養父母は相次いで亡くなった。他に身寄りのない彼らの遺した土地と全財産と、秘伝の鏡をオレは譲り受けた。
人里離れた辺境の地では将来の展望が開けない。苦渋の決断の末、両親と供に過ごした長野の家を売り払うことにした。
埼玉県に格安物件を借りて移り住み、現在は洋菓子工場でバイトをしながらパティシェの専門学校に通う日々だ。
しかし順調だったオレの新生活は、己のせいで陰りはじめている。
両親の仏壇の抽斗を開けた。数珠と供に置かれた封書を取り出す。困ったことがあった時に、開封するようにと云われていたものだ。
紫色の封筒から色褪せた便箋を広げると、何かがハラリと落ちた。
勾玉……? 内側の輪郭が膨らみを帯びた三日月か、若干欠けた半月にも見える。
【注意書】
一、秘伝の姿見に、皆既日食を照らしてはならない
一、秘伝の姿見は、もう一人の己の狂気を掻き立てる
一、秘伝の姿見に万一、皆既日食の光を翳せば大切なモノを失い、鏡は粉々に砕け散るだろう
一、大切なモノを取り戻すには、秘伝の姿見と等価の素材――琥珀とギベオン隕石の融合体を手に入れ、ブードゥの呪術を解き放つ鏡に己の姿を映すべし
和紙に万年筆で記された注意書は、そこで終わっている。
『ブードゥの呪術』……? 最後の一文、意味深なフレーズが引っ掛かる。
同封された手書きの地図があった。《山梨県 巨峰郡 天山 旧・葡萄村 ピオーネ森↘️✝️↗️》とある。雑木林の中にロザリオロードと呼ばれる十字架の小路――別名・我が道――があって、周辺一帯が該当するようだ。十字形を縁取るように紫のマーカーで印がつけられ、道標が書き込まれている。稀少の輝石は日本地図にも載っていない、この界隅に埋まっているらしかった。
その昔、先祖が発掘した場所は島根県の出雲市だったはずだ。何故、遠く離れた山梨県なんぞに……。
しかし現代となっては日本で唯一、僅かな輝石の欠片が残されているとすれば、件の地だけということだ。
まさか此の石のことではあるまい。オレは同封されていた勾玉もどきを指先で掬い上げる。お世辞にも綺麗とは言い難い白濁色で、光沢も澱んでいる。煌びやかな輝石とは程遠いだろう。
《八百万の謎、山梨に眠る》赤紫の文字は、黄ばんで変色した和紙の繊維に抗うようにインクが滲みだしていた。
さらに下記、《⚠️但し現在は立ち入り禁止区域》となっている。これではどうしようもないではないか。