第五話 別れ
頬を伝う生温いものを拭うこともせず、ただひたすらに走って真っ先に向かったのはあの公園だった。しかし、どれだけ目を凝らしても、静まり返った公園には零の姿はない。
「ここには、いないか……」
零は『思い出の場所に行く』と言っていたし、ここにいる可能性は低いだろう。そう分かっていても、どこか期待してしまう気持ちが拭えなくて私はここに来てしまった。今思えばここは、零に初めて出会った場所だったからだ。
それに公園で零と話すことが最近は日課のようになっていたため、ここ以外向かう場所が思いつかなかったのもある。
「でも、ここにいないなら、早く別のところに行かないと……っ!」
既に太陽は西に傾き、橙色の明かりが町を照らしている。徐々に沈んでいくその光を見ると焦燥感が増す。もし、零を見つけられなかったら……? そんなのは絶対嫌だ。
もう二度と会えなくなってしまう前に、一秒でも早く会いにいこう。
だが、零が言っていた『思い出の場所』に心当たりがない。いや、あり過ぎてどこに行けば良いのかが分からないのだ。
先程見た写真を思い出していく。公園で遊ぶ私達、家の庭先ではしゃぐ私達、神社でのお祭り……どこも大事な思い出の場所だ。
頭に浮かんでは消える光景。あれでもない、これでもない……必死に記憶を手繰り寄せるがどれもピンと来ない。行き詰まって、髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。落ち着こう。落ち着いて考えないと。冷静さを取り戻すため空を仰げば、ふわりと空を漂う蛍のような淡い光に気がついた。その光の先を目で追うと出処はこの町の名所とも言える丘の上のようだった。
「……まさか……っ……」
春になると満開の桜が埋め尽くすその様は幻想的で、私も零も好きな場所の一つだった。そしてあの丘は一緒に写真を撮った最後の場所でもある。もしかしたら……あの場所に……?
「…………いそ、がなきゃ……っ!」
彼処に居る、という確信を持って、私は感情に突き動かされるままにその丘へと向かった。景色が流れるように過ぎていく。丘に近づいて行くにつれ、視界がぼやけて朧気に見える。幾ら吸っても息苦しい胸は早鐘を打っていて、落ち着く気配はない。
「……はぁっ……はぁっ……」
一心不乱に走り続け、汗なのか涙なのかも分からない液体がぽたぽたと伝い、地面にシミを作っていく。必死の思いで辿り着いた丘の頂上で私は膝に手を付き息を整える。
手の甲で濡れた目元を拭って、クリアになった視線の先に、私が一番会いたいと願っていた人がいた。
「……っ……零……!」
痛む心臓を抑えながら、私はその名を叫んだ。零は緩慢な動作でこちらを向いた。
「……桜空。……来て、くれたんだ」
儚げで、触れたら壊れてしまいそうな零が、いつものように柔らかな笑みを称えて出迎えてくれた。その体からは淡い光が漏れ出していた。
「……ふふ、なんて顔してるの桜空」
汗や涙でぐちゃぐちゃになった私の顔を見て、彼は小さく笑った。
零の身体は少し透けていて、宵闇の中に淡い仄かな光が零れていった。辺りはその光で包まれていてとても幻想的だった。彼が儚く、消えてしまいそうに見えるのはそのせいなのだろうか。
私は一歩一歩、踏みしめるようにして近づていく。土を踏む感触が足の裏から伝わってくる。零はその澄んだ瞳で私を見据えたまま動かなかった。
「零、私……」
続けるべき言葉が見つからなかった。ありがとうもごめんなさいも、零は求めていないような気がした。
「……久しぶりだね、桜空」
――久しぶり。
これは、十年前の別れから再会したことを指している。そう、直感した。……つまり、零は全てを、思い出している。
「元気そうで、良かったよ」
「大きくなったね。もう俺と同じ歳になったんだ」
優しく言う零は私のことを責める素振りもなく、それどころか私の成長を喜んでくれていた。
私のせいで、死なせてしまった。責められても仕方ないのに。罵られても、言い返す権利など私には無い。零のことなんて忘れて、何も知らずにのうのうと生きてきて……どうしようもなく酷い人間なのに。それなのに、零はそのことについて何も言わない。
もう涙なんて出なくていい。今、私がやるべき事は泣くことなんかじゃない。そんな意思に反してとめどなく瞳から溢れてくる液体は顔を伝い、顎から落ちて離れていった。
「……泣かないで」
泣き続ける私に零は優しく笑いかける。伸びてきた少し大きいその手は、頬をそっと撫でる……はずだった。
その手は、すり抜けてしまったのだ。
今まで触れることのできていた零の体に触ることが叶わなくなっている。
この事実が、零が二度と会えない場所へ行ってしまうということを強く感じさせた。
「いやだ……待ってよ、いかないで……」
まだ何も零に伝えてない。
伝えたかったことを何も言っていない。
「ごめんなさい……あの時、私のせいで……っ」
あの時私を庇わなかったら零は死ななかった。死なずに済んだんだ。
泣いているばかりじゃなくて早く助けを呼びに行っていれば、零だって助かったかもしれない。
今更、もしもなんて考えたって零が死んだという事実は変わらない。変えることなんてできやしないだろう。それでも、沢山の後悔と自分への不甲斐なさで胸がいっぱいだった。今だって私は泣いてばかりで、あの頃と何一つ変わっていない。
「桜空のせいじゃ、ないよ」
予め用意していたかのように、零にしては強い口調で……はっきりと私の目を見て口にする。
すれ違った手は私の手に重ねられていて、温もりを感じることはできないはずなのに。どういうわけか、暖かった。
「桜空のせいなんかじゃないから」
はっきりと、それでいて優しく。まるで幼子に言い聞かせるように。
「でもっ……」
引き下がらない私の言葉を遮って、零は口を開く。表情は相変わらず、微笑みを保ったままだ。
「俺がしたくてやった事だから。ね?」
未だ泣き止まない私を宥めるように、柔らかな声で。そうだ、あの時も零は大丈夫だから、と。今と同じように優しい声で、愚図る私を送り出したんだ。
「……っ、零……」
「全くもう、桜空は今でも泣き虫なんだから」
呆れたように笑って見せる零の身体はもう後ろにある街の景色が透けて見える程、薄くなっていた。溢れている光の粒も、さっきとは比べ物にならないくらい多い。周りの光が増せば、それに比例して零の存在が希薄になっていく。
伸びてきたその手は、空を切る。行き場を失った片手は中途半端な所で止まって、どうすべきか悩んでいるようにも見える。
触れないもどかしさを誤魔化すためか、零はまた、笑った。困っている時も、苦しい時も、どんな時でも零は笑うのだ。宙に投げ出されたままだった手は、力なく降ろされた。
「最期、くらいはさ……笑って見送ってよ……」
そんな零が、ぽつりと弱々しく呟いた。その声は震えていて、目は潤んでいた。笑顔を繕おうとしてもいい上手くいかないのか、その顔は歪んでいた。
「二度も泣き顔でさよならなんてしたくないよ……」
そういう零の目からは今にも雫が落ちてしまいそうだ。だが、唇は綺麗に弧を描いている。あくまでも、笑顔でサヨナラを告げようとしてくれているのだ。
「……うん……っ……」
無理やり目を細めて口角を上げて、笑顔の形を作る。
零は泣いていたが、満足げでとても嬉しそうだった。
私はその姿を忘れたくなくて、目に焼き付けておきたくて……ぼやけた視界でも目を逸らすことはしなかった。
数十秒後。そこに、零の姿はなかった。代わりに星空に向かって昇っていく沢山の淡い光の粒だけが行く先を示していた。
最後までお読み頂きありがとうございました。
ここで完結となります。
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