第二話 過ぎ行く日々
初めて声をかけた日から既に数日が経過していた。今ではもう、放課後に彼に会えることを楽しみに学校に向かっていると言っても過言ではない。学校にいる間に、今日は何を話そうかと考えそわそわしてしまう。出会って間もないのに、早く放課後になりはしないかと気持ちが逸るばかりだ。
「おはよー!」
「あ、おはよう」
挨拶をすれば彼は爽やかな笑顔を振り撒きながら木から降りてくる。そして、木の近くにあるベンチに座って会話をする。この流れがここ何日かのうちに日課と化していた。
いつもは放課後に寄って話すだけなのだが今日は休日。それなのに例の如く公園に来てしまったのだった。彼は聞き上手で安心する。一緒にいる時の雰囲気が心地良くて、話すのが楽しくなってしまったのだ。
「ねぇ、あのさ」
斜め上にある彼の横顔を見て、前置きなく彼に話しかける。すると彼は私へ視線を動かし、どうしたの、という風に首を傾げる。彼のこの動作は言葉の続きを促すものであるというのは会話を重ねる内に分かったことだ。
「あなたの名前って何ていうの?」
何度も会話をしているのに、最初に聞くべきであろうことを聞いていなかったことを思い出した。私も彼も互いに名前を聞くという行為を何故だかしていなかったのだ。確か名前は覚えていると最初の時に言っていたから、答えてくれるだろう。
そう思っていたのだが、名前を聞かれた彼は唇に手を当て考え込む仕草を見せた。宙を見たり、軽く首を傾げたりしていて何やら様子がおかしい。唇だけを動かし音を確認するかのような動作を繰り返す。
彼を見ている内にある事が頭をよぎった。まさかとは思うが自分の名前を忘れてしまったのだろうか。勝手にハラハラしていると、彼はゆっくり口を開いた。
「俺の名前は……零、だよ」
それを聞いて安堵すると同時に、なんとなくその名前に懐かしさを感じた。何処かで聞いたことのあるような……まるで昔から知っていたかのような……そう感じさせる名前だった。また、彼に似合っている名前だと変に納得してしまった。
「君は? 何ていうの?」
冬の夜空の如く透き通った黒い双眼で私を見つめ微笑みを浮かべて尋ねてきた。その問いに、待ってましたとばかりに自慢げに答える。
「私はね、桜空!」
桜吹雪の舞う春の日に生まれたからという理由で母が名付けたらしい。桜の空でサラと読むなんて珍しいとは思うが、私はこの名前をとても気に入っている。
「桜空か。いい名前だね」
そう言って笑う彼に誇らしげに「そうでしょ」と返すと、柔らかく軽やかな笑い声が帰ってきた。いつの間にかこの緩やかで暖かな空気感に慣れっこになってしまった。
零はどんな些細なことを話しても楽しそうに聞いてくれる。話を広げるのも上手く、話し続けているうちに気づけば日が暮れているなんてこともあった。今まで抱えていたちょっとした相談や悩み事も自然に話してしまう程、私は零に気を許していた。
名前を知ったことで私はより一層親近感が湧いた。もっと零のことを知りたい。いつも私が話しているだけで、零のことを知ろうとしていなかったと反省する。
生前を覚えていなくても、話していれば見えてくることもあるかもしれない。幸い、今日は休日で、まだまだ沢山話す時間はある。現に頭上に浮かぶ太陽はまだ燦々と輝いていて、はっきりとした青色と合わさって目に眩しいくらいだ。
「ふみゃあー」
「ん?」
「猫……?」
可愛らしい高めの声の方向へ目を向けると、そこに居たのは彼がいつも腹に抱いていた猫だった。全体的に白い猫だが顔や尻尾の辺りが斑に茶色い虎模様になっている。特に顔は模様が相まって歌舞伎役者のようで大分特徴的だ。それでいて、くりくりとした丸い瞳は綺麗な浅瀬の海を思い起こさせる透き通った水色だった。
「シロ、どうしたの?」
脛の辺りにカリカリと爪を立てて登ろうとしているその猫を、零は慣れた手つきで膝の上へ乗せる。シロと呼ぶには些か茶色が多いその猫は零の膝上で丸まって、気持ちよさそうに目を細めている。ゴロゴロと喉を鳴らし、完全にリラックスしている。相当零に懐いているらしい。
撫でられているその猫をじっと観察する。やはり、白色よりも茶色の割合が多い。よく見れば背中も薄ら茶色い。何故零はこの猫をシロと呼んでいるんだろうか。見続けていると、私の頭を覗いたかのタイミングで零は補足するように説明を加えた。
「最初に会った時はもっと白かったんだ。だからシロって呼んでたんだけど……成長したらだんだん茶色くなってきたんだ」
「へぇー……そうなんだ」
「この子とっても人懐っこいんだ。ちょっと撫でてみる?」
そう言って彼は猫の前足の付け根付近を持ち、臀部を支えた状態で私に差し出してきた。猫は零の方に顔を向けたまま喉を鳴らしていて、私には見向きもしない。少しくらいこっちを見てくれてもいいのに。若干、恨めしい。
とはいえ、初めて会う人間になどそういうものかもしれない。そう納得させて、驚かせないように下から優しく手を伸ばす。伸びてきた手に興味を持ったのか、猫はつぶらな瞳で見上げてきた。敵意は無いようなのでそのままそっと顎の下を撫でる。零の言った通り、人懐っこい猫だったようで、嫌がらずに触らせてくれた。
「わあ……もふもふしてるっ……!」
ふわふわの羽毛の中に手を埋めているようだった。あまりの心地良さに興奮しながらも猫が嫌がらない所を触らせてもらう。徐々に慣れてきたのか、猫は気持ちよさげに目を細め、再びゴロゴロと喉を鳴らし始めた。縞模様の長い尻尾を振り子みたくゆらゆらとしなやかに振る。
もふもふ具合をゆっくり堪能させてもらった後、零がそっと地面へ下ろすと猫は一声鳴いて、若草色の茂みの中へとことこと歩き去っていった。
「シロ、可愛かったでしょ?」
「うん!」
優しい眼差しで猫がいなくなるのを見届けた後、そう聞いてくる零に元気良く返事する。くすくすと小さく笑い、嬉しそうにする零を見ると胸の奥が暖かい気持ちでいっぱいになった。
その後も、私の家族の話や昔の楽しかった思い出、恥ずかしかった出来事などを零に話した。零は相槌を打って話を広げていくため、沈黙は全く訪れなかった。
零のことを知ろうと何個か質問はしたが、最初に言ってた通り生前のことをほとんど覚えていないようで、質問しても困った顔をさせてしまった。
しかし、幽霊になってからのことはしっかり記憶に残っているらしく、聞けばシロの話以外にも色々なことを話してくれた。公園によく来る仲の良い老夫婦のことや、毎週土曜日に二人で遊びに来る幼い兄弟がしている独特なごっこ遊びのこと、木の上で寝ていたら小鳥が止まってしまって動けなくなったこと……。微笑ましい話や面白い話など内容は様々だった。
あれこれと話している内に、あれだけ高い位置にあったはずの太陽はあっという間に傾いてしまっていた。明るかった公園も橙色の光と薄暗闇が混ざって、少しだけ不気味になっている。
学校終わりの帰り道。私は逸る気持ちを抑えることに難儀していた。冷静さを保とうとする心に反して、体は早足で公園に向かう。きっと零は今日もあの木の上で寝そべり、待ってくれているだろう。そう思えば、私の足は早足どころかどんどん駆け足になっていく。
「零っ!」
「あっ、桜空! 今日も来てくれたんだ」
毎日零と話し、あの日からはもう二週間が過ぎている。朝から放課後に公園に行くことが楽しみになる程、零と話すのは私にとって大事なことになっていた。一緒にいればいる程、零が幽霊だと信じられなくなる。表情は豊かで、おやつを持っていけば美味しそうに食べる。私と言葉を交わし会話も楽しんでいる。……だが、時折触れた手が氷を当てられたように冷たかったり、通りかかったおばさんに独り言を言っていると思われ気持ち悪がられたりする度、零が幽霊であるという事実を嫌でも実感させられるのだ。
「最近は、桜空が来てくれるからすごく楽しいよ。時間が過ぎるのも早いし……こないだまで一人だったのが嘘みたいだ」
心から嬉しそうに笑う零に胸の奥がぎゅっと締め付けられる。何気なく言ったであろうその言葉に、私はこの公園で一人空を眺めている零の姿を思い出したのだ。何をするでもなく、ただぼんやりとどこか遠くを眺めているような零の姿を。
――きっと、寂しかったはずだ。
私はふとあることを考えた。
今はまだ楽しい時間を過ごすだけでいい。私も零も一緒に居れる間はこれでいいだろう。でもこれから先、私がここを出てしまったら? 他に零を見える人がいなければ当然、一人きりになる。もし仮に一人にならなかったとしても……幽霊である零がいつまでもこの世界に留まっていられる保証はないのだ。
「ねぇ、零」
零は微笑み、首を傾げる。……先を促す仕草だ。
「零はこのままで、いいの?」
私は零のことをもっと知りたい。零が何か思い残していることがあるのなら……助けてあげたい。たった二週間ぽっちの付き合いの私が言うにはおこがましいのかもしれない。零にとっては迷惑かもしれない。それでも零自身が覚えていないことを、生きていた時の零を私は知りたいのだ。
――その結果、別れることになろうとも。
「えっ……?」
突然の私の問いかけに零は目を丸くして小さく声を漏らす。一歩彼に近づいて下から瞳を覗き込む。少しだけ、零の瞳が揺らいでいる気がした。
「だからさ、零は自分のこと知りたくないの?」
これは私のエゴだ。零が知りたくないのなら私には知る権利なんてない。知りたいのならできる限り協力する。一番大事なのは本人の、零自身の気持ちだ。零の意思を無視して動くべきではないだろう。だから……どう思っているのか、教えて欲しい。
「それは、もちろん……知りたいよ」
絡み合っていた視線を外して、目を伏せる彼は寂しいような嬉しいような……どちらともつかない、言い表し難い表情をしていた。
「よーし! それならさっそく明日から零のことを調べよう!」
「お、おー……」
重くなった空気を打ち払うようにあえて明るく振舞い、拳を作り勢い良く上に突き出す。すると、零も恐る恐る拳を作り、真似するように手を挙げた。