七話
どちらから先に走り出しかをリュカは定かに覚えていない。
街から煙がはっきりと見えた時には、二人は駆けだしていた。
夜の空に立ち上る煙は、リュカが蓋をした不安を心の中に渦巻かして一杯にしていく。
思わずリュカが先輩の顔色を見ようとするが、走り出してからは、その背中しか見ていない。
少なくともリュカの額から嫌な汗が止まらなかった。払っても拭っても不安があらわれて、心を押しつぶしやってくる。
歩き疲れと不安のせいだろうか、足が思うように動かない。それに段々と離れていく先輩の背中がリュカの視界にあったからもしれない。
──早い
同じ体格の顳紋人と人とでは、身体能力がまるで違う。が、今現在は身体的な成長速度が違うせいで、リュカが先輩と同じ速度では走れない。もどかしいとリュカは苛ついていた。
不安と急くあまりにリュカは、先輩の背中ばかりを追いかけて足下を見れていなかった。
少し大きめの煉瓦の欠片を踏みつけて、つんのめる。
遠くなっていく先輩に「まってください」と言う前に、リュカは派手に転んだ。
──追いかけないと
煉瓦畳の冷たさを手のひらで感じながら、腕に力を込めた。
起きあがろうとしたリュカの腰に手が回され、手首を捕まれ引き上げられたかと思うと、既に抱き抱えられていた。
「先輩、ちょっと待って。なんでお姫様だっこ?」
「黙ってろ、舌噛むぞ」
抱き抱えられて空がすっかり黒に塗りつぶされていることを思い出す。周囲は用意していた洋灯が必要ない程に明るい。煙が上がっているのが判るほどに。焦げ臭さがリュカの鼻を刺激した。
抱えられたリュカが下ろすことに固執しなかったのは、明らかに身体能力の差を思い知ったからだ。
──早い
その差は、歩幅の違い、体格の違い、体力の違いは多少あれど、先輩のこの早さは結局己の体の使い方を知っているということに尽きる。強制的な稽古の中で、先輩はリュカにそう教えてくれていた。
「コツなんてないさ。自分の体がどう動いて、どこまで動けるかを知ってるかどうかだけの問題だ」と“剣の虫”は笑いながら木剣をふるっていた。
リュカが知る中で先輩よりもその点で勝っている人はいない。証拠に、幼児体型とは言えリュカを抱えて走る先輩の顔は、余裕があるように見えた。リュカは、かいた汗に風を感じた。
──こういうところが、女にもてる要素なんだろうか
そんなことを考えながら、街に近づけば近づくほど熱く明るく、そして炎と焦げた臭いが強くなるのを感じた。
──門が破壊されてる?
遠目から見ても明らかに街の扉は、半分割れている様に見えた。近づけば近づくと、それは明確になっていく。
先輩がリュカを下ろしたのは門の、その眼と鼻の先だった。リュカが街の入り口を見ていると「おいリュカ」と声をかける先輩を無視して歩んだ。
──おかしいな
意識がぼんやりとする、とリュカは思った。
既に遠くから見えてた通り、門は潰れていてた。木と鉄枠で造られた頑丈な扉は、半分に割られている。辺りには木っ端になった木片や木炭、鉄屑が散らばっていた。残り火が幽かに揺れていた。
引き寄せられるように近寄りながら、リュカは破壊された門を呆然と見た。
足先が何かを蹴飛ばしたが、リュカはただ崩れ落ちた門から眼を離せない。「リュカ」と呼ばれた気がしたが、それでも歩みが止まらない。
──これは悪夢なんだろうか、それとも幻か何かなのだろうか
壊された門は、リュカに日常を非日常に変える衝撃を与えた。頭の奥で大きな音が鳴っているよう気がする。破壊された門の隙間から覗けるのは、半壊した家、燃えている家があるのがわかった。
朝一番にここから村へと向かったのだ。知り合いの門番に見送られてはずだ。
──コッラさんは……
と、リュカの肩を先輩が掴んだ。
「リュカしっかりしろ」
「え?あぁ、先輩」
「近づくな、魔物が近くにいるかもしれん」
リュカが振り返ると金属の反照が見えた。先輩はすでに剣を抜いて、リュカを死角が多いと判断した離れた壁際に連れて行った。
「しっかりしろ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないぞ、リュカ」
先輩の言うとおりリュカの顔は真っ青だった。「まずは深呼吸しろ」と言われるまま、リュカは深呼吸を繰り返す。
頭の中の靄が晴れるように思考が戻ってきたリュカは、自分で頬を軽く叩いた。周囲の熱にやられたのかもしれない、とリュカは顔をしかめる。
「すいません、動揺しました」
「……、ここで待ってるか?」
「先輩は?」
「道場とジェラールさんのところを見てくる」
「なら、オ……私も行きます」
「大丈夫なのか?」
「ただ熱にやられただけです。職場ですし、それに住み込みですしね」とリュカは無理矢理に笑った。
先輩は苦々しい顔でリュカを見ている。
門の近くにいるだけで、胸焼けに近い感覚が強くなった。先輩にそう言うと「食い過ぎだろ」と笑うと、急に神妙な面もちになって「たぶん、魔素汚染だ」と言われた。
「なんですそれ?」
「しらん。昔、師匠筋の人と魔物を斬ったとき、俺もそうなって、そう言われた」
前後不覚と嘔吐、酷いと意識混濁になるらしいと先輩は付け足す。
「魔素が、体内に入り込むとそうなるらしい」と先輩。「治るんですか?」とリュカ。「少なくとも俺は治ったよ」と先輩が言って、「先輩の基準だと参考にならないですね」とリュカは言った。
意を決して、二人で門に近づく。
焦げた臭いと残った火の熱でリュカは顔を思わず歪める。チラチラと燻る燃え滓に火蜥蜴が蠢いているが見えた。
──妖精に火蜥蜴って、今日はどうかしている
火蜥蜴は妖精と同じく実体をもたない存在の一つだ。リュカが聞いた話だと、魔物が生息する地域で現れるという。
物珍しそうに火蜥蜴を横目で歩みが遅くなったリュカに、先行していた先輩が振り返った。
「止まるなよ、リュカ」
心配する先輩に言われて止まりそうになった足を動かす。
身体を屈めて、破片を避けながら歩くが、火蜥蜴の動きをリュカは目で追ってしまう。視界の端で行き着いたそこには、今朝見送ってくれた人が横たわっていた。
思わずリュカはそちらを見る。
火蜥蜴が遺体の上を這うと、表面が炭になっていく。
それを認識した瞬間に、昼過ぎに食したものが胃から一気出てきた。
「リュカ!」
「……ずいません、コッラさんが、そこに」
嗚咽まじりの嘔吐で立ち止まりかけるリュカの手を引いて先輩は進もうとする。
「いいから、来い」
リュカの吐き気が収まらず、引きずられながら再び嘔吐いてしまった。
「走れ」
背後から熱気を感じたリュカが振り返ると、火蜥蜴と眼があった。細い舌を出し入れして、リュカを狙っている。鎮火したはずの火が踊るように燃え始めた。
何故狙われる?とリュカがぼんやりとし始めた頭で考える。火蜥蜴と眼があった気がした。
燃えていない家屋の方に先輩とリュカは逃げ出した。