二話
「いや、もう働き手は見つかってしまってね」と申し訳なさそうにワイン商ジェラールに言われたとき、紹介状を書いた行商人の顔がリュカの頭の中であざ笑っている気がした。世の中が、目の前が真っ暗になるという感覚を、リュカは今も覚えている。
紹介された店に赴くと、そこには既に“剣の虫”と呼ばれることになる先輩が働いていて、店主ジェラールは終始申し訳なさそうだった。そんな様子に事情も聞くに聞けずリュカは店を出ようとした。「残念だった」と村に帰るべきなのだが、リュカは到底帰る気になどなれなかった。
此処にやってくるための準備やその道のりが徒労に終わったのだ、すべてが無駄だったのだ、「自分を必要としてくれるのは、誰もいないのだ」とリュカは思ってしまった。項垂れて立ち去ろうとしたとき、“剣の虫”先輩が声を上げた。
たどたどしく店主と交渉する“剣の虫”先輩が「給金は半分でいい」と言わなければリュカは、もしかしたら野垂れ死ぬか盗賊に身を落としていたかもしれない。
「剣の稽古の時に抜け出すから、そん時は頼むわ」
愉快そうに笑いながら頼む先輩が、殆ど仕事場にいない状況になるとは、その時まったく予想していなかった。が、リュカは“剣の虫”に救われたのだ。
交渉してくれた先輩への恩と拾ってくれてたジェラールに認めてもらうため三年間、必死に働いた。
出来なかった読み書きと算術を覚え、商人として生きていくんだと思い覚悟を決めたとき、両親からの便りがきた。
半年前に兄が嫁を貰ったという報告じみた手紙だった。内容は簡素なもので、相手はリュカの幼なじみと書かれていた。兄は初恋を知っていたはずだ、と読み終わったリュカの頭に血が上る。以前なら感情のまま手紙を細切れにしただろう。深呼吸をして、もう一度読み返してみた。
手紙で知らしてくれたのは、いなくなった者への最低限の配慮のように思えた。
──そういえば親父母も兄も字が書けなかったな……
誰も書けなかったから、村の顔役に代筆を頼んだのだろう。「代筆を頼むなら、心情を言葉に出来るはずもないか」とリュカは思い、「手紙も無料ではない」と商人的な解釈をした。
リュカは気落ちしたが、周囲に悟られぬように仕事に打ち込んだ。そして、少し難しく考え込むことが増えた。
おそらく兄は両親から農地を引き継いで暮らしていくだろう、自分の初恋の相手と、そう思うと気が狂いそうになったが、自棄にならずにすんだのはワイン商の丁稚の仕事が忙しかったからだ。
いや、リュカは必死に仕事をして忙しくしようとしていた。
そんな時、裏庭で先輩に唐突に呼び止められた。
「なんか気落ちしてるなリュカ」
「……先輩、また道場か何かですか?」
「いや、稽古につき合え」
「は?」
打ち下ろされた木剣をリュカは間一髪避けた。
「この不意打ちを避けるか。人種差というのは、日々の修練も簡単に超えるか」と楽しそうに笑う“剣の虫”先輩。
「あぶねぇな!」と、リュカが一瞬で激高する。が、お構いなしに先輩の剣は段々と激しさを増していく。
それをリュカは避け続けた。ただ段々と腹が立ってくる。素人のリュカが判るくらいに先輩は手抜いていた。
「ふざけんな!」
剣の激しさに比例するようにリュカの吐き出す言葉が悪くなっていく。
「すごいぞ、リュカ。俺にもいい訓練になっている」
「こちとら仕事があるんじゃボケェがぁ!」
リュカが叫んで、避けれない木剣が寸止めされた。
「でも、いい運動になったろ?」と言われたとき、「はぁ?」という気の抜けた怒りと声がでた。
そしてリュカのふさぎ込んでいた気持ちが楽になっていた。その強制的な訓練は、リュカの生活の一部になっていく。
その頃から、兄妹のようとか夫婦のようと共通の知己から言われるようになった。余談だが、言われたそれを全力で否定しようとしたリュカのせいで、ますますから揶揄される結果になる。
「頑張っているね、リュカ。商談を一つ任せてみようと思うんだが、やってみるかね?」と、ジェラールに言われ、リュカは飛び上がりたいくらい嬉しかった。
「あぁ、一度試飲用を引き取りに連れて行ったことがあるだろう? あの村へ行ってもらいたいんだ……ただ護衛に、あの“剣の虫”を連れて行って欲しいんだよ」
ジェラールの言葉にリュカは飛び上がって喜ばなかった自分を褒めたくなった。
──結局、そうなるのか
その後、ジェラールは難しい顔をしながら自分の娘の愚痴をこぼした。
聞いているとジェラールの苦労が日々の言動と合わさって解ってきた。親とワイン商の狭間の葛藤する上司にリュカは同情した。
先輩に文句を言いながら歩んでいくと、二人の視界の先に、目的の村が見えてくる。
「なぁリュカ、また稽古つき合ってくれよ」
「おい、道すがら数々の文句を聞いてたか?」
そんな矢先の唐突な先輩のお願いに、リュカは口汚く罵った。
「それとも、おまえの右と左の耳は直結直通なのか?」
「間に目と鼻があるよ、リュカ」
「なら聞こえてないな、その耳は。飾りでいらないなら、佩いている剣でそぎ落としな」
「いらなくても飾っているなら、何かの役に立ってることだろ」
「そんなもの埃がたまるだけだろ、棄てな」
「誇りを棄てるなら、森で野獣か魔物として生きることになるぜ」
「そうしろ、そうしろ」
「なら、眼も鼻も必要だな」
森になら花と芽があるからいらない、と言い掛けてリュカは会話を楽しんでいる自分に照れた。
「っせぇな、おい」
花も芽も酒場で飲兵衛たちが給仕嬢をからかう隠語だ。
「どうしたどうした?あと、うるせいな、だぞ、リュカ。ウルは何処へやった?」
ウルというのは、リュカの初恋の相手の名だそして、現在は義姉でもある。
瞬間に沸騰したリュカは、先ほどまでの照れが吹き飛んだ。
「あぁ!」
リュカは凄んでみたが、「大体、リュカが稽古につき合ってくれないから最近はもっぱら案山子相手か素振りしかできん」と、どこ吹く風で先輩は理不尽に拗ねた。「な!……んで、先輩が拗ねるんですか?」と冷静になる。
もし過去に戻れるなら、稽古の後は身の上話などするなと自分に忠告したいとリュカは思った。それをみる“先輩”は愉快に笑っている。
自分は何故こいつに失恋話をしてしまったのだろうとリュカが後悔していると、先輩が手で進みをとめた。
「リュカ、止まって」
珍しく先輩がリュカに強く言う。
リュカがのぞき込むと道の向こうから、襤褸をまとった剣士が歩いてきていた。先輩が柄に手をかけている。
衣付き頭巾を目深に被り、背には大きな剣、先輩がとめた理由をリュカは理解した。が、歩き方はふらふらとして弱々しい、先輩の杞憂だとリュカは思っていた。
剣を背負った襤褸の周りに無数の妖精たちが飛び回っているのが見えるまでは。青とも白とも言えぬ薄い光が、ぼんやりと浮かんでいる。目を凝らすと、人型になっているもの、それに成れずにただ明滅する光点として飛び回るもの、中途半端なものそれぞれだ。
思わずリュカは目を見開く。
妖精は実体を持たない。リュカの村では早世した死霊が妖精になると言われていた。
──は、はじめてみた
明滅を繰り返す妖精に驚くリュカを余所に先輩は身構え続けていた。今にも飛びかかれるように、そしてリュカだけでも逃がせるように。
「……──、───」
襤褸の男が先輩の横を通り過ぎるときに何か呟いた。板の隙間から零れ出る風か何かだと思ったリュカにはただの音にしか聞こえなかったが、先輩は聞こえたようで、通り過ぎる襤褸を追うように振り返った。
「なんだと?」
先輩の問いかけを襤褸は気にすることなく、向かいからやってきた様にふらふらと歩いて行く。
気になった先輩が、襤褸の剣士を呼び止めようとした時、穂を揺らす風が吹いた。
まるで襤褸の行く道を守るような、砂を含んだそんな風だ。思わず眼を守ろうと先輩が立ち止まる。
風で襤褸の頭巾がめくれあがると、白髪がこぼれた。白髪は長く風に舞うが、頭には毛が少なく皮膚の肌色も見える。リュカがぞっとしたのは、後頭部だったが傷跡と皺が無数に見えたからだ。
「あー」と言葉にならぬ音を吐いて襤褸は頭巾を被りなおして、歩みを続けるようだった。
リュカ達が住む街に向かって、進んでいく。
そんな風景を先輩と二人見ていたが、リュカは不安になっていく。
「早く用を終えて、帰りましょう、先輩」
急くリュカの言葉に「そうだな」と言った先輩は、まだ襤褸の老人の後を見続けていた。
リュカ、十七歳。
彼にとって、その日を境に世界が変貌したと言っても過言ではなかった。