二章 1
東京上空に怪物が現れたことで、戦後七十年も経って初めて戒厳令が発令された。
戒厳令という法律はないが、東京都から自宅で待機するように呼びかけられたのだ。これは、緊急事態基本法に何人も公の機関の指示に従わなければならないと書いてあることからも事実上の戒厳令であった。
テレビ番組は、きちんと買い取ったかもわからない視聴者提供の映像を垂れ流し、怪物とガユガインの出現を意味もわからないのに解説していた。
兎姫乃は、沙弥佳の映像が流れないかと、それだけを目当てにテレビを見ていた。
「ああいうのが現れるのは、日本の政治家に油断があるからなんですよね。もっと外国と友好関係を築いてですね」
とんだ見当違いなニュースであることは、高校生の兎姫乃にも理解できた。マスメディアの劣化はSNSを見ていれば一目瞭然である。なんでも政権批判に終始し、議論の種を国民に提供していない。
「兎姫乃は、どうなってる?」
眼鏡を掛けた冴えない男が、スマートフォンでニュースを見ながら兎姫乃へ尋ねた。父の鈴木伸哉だ。スーツ姿ではなく、休日の姿でくつろいでいた。
「学校はしばらく休みだって」
「そうか」
伸哉の姿を見ていると、予定外の休日というくらいの感覚だった。
「考えたんだが、少し東京を離れようか」
「そうですねぇ」
伸哉の提案にエプロン姿の母、友喜が相槌を打つ。
「家はどうするの?」
兎姫乃は尋ねた。
「諦める。死んだら元も子もない」
「そっか」
生まれ育った家を放棄するのは、なんとなく後ろ髪が引かれる。過去の自分がこの家に残っているようで、それが取り残されてしまうような寂しさがあった。座敷童の正体かもしれないと妄想が膨らみ始める。
「ん」
その感覚がガユガインの中で書いた感覚を思い出させた。頭の中で膨らみ続ける物語をなんの躊躇もなく取り出せる感覚がはっきりと残っている。気がつけば、箸を万年筆のように持ったまま固まっているのだ。
「嫌か?」
兎姫乃が不自然に動きを止めたので、伸哉は尋ねた。
父親の気遣いは嬉しかった。娘の感情をどこまでも尊重してくれるのだ。その包容力に甘えたくない感情もあり、普段は距離を置いていたりもした。今は緊急事態で、家族の運命が掛かっている場面だと色々と考える。
ガユガインのことは話すべきでないと思った。
「少しだけ」
嘘を吐いた。この期に及んで家に残るほどの愛着はない。一刻も早くガユガインから離れたかった。父の見せ場を作るためにあえて合わせたのである。
「そうか。なら、今しばらく留まるか」
伸哉の判断に兎姫乃は目を丸くする。
「え? なんで?」
「少しだけ嫌なら、少しだけ待つよ」
「嫌だけど仕方ないって意味だったんだけど」
「なぁに、きっと大丈夫さ」
一家の大黒柱の裁定としてどうかと思うものの、父親の決断は揺らぎそうになく、兎姫乃は黙って受け入れることにした。
あっさりと東京を離れるよう言えば良かったと悔いが残る。
「それにしてもうるさいな。緊急事態基本法も無視とは何様なんだ」
伸哉が天井を見上げて毒づく。
家の上空をヘリコプターのローター音に覆われた。テレビでは、兎姫乃の住む板橋区の映像が流れている。
男性のレポーターが、怪物に踏み潰された家々を見下ろしながら、まくし立てるように喋っていた。
「東京の上空に怪物が出現する前には、現在映っております板橋区で連続通り魔事件も起きていました。目撃者の話によりますと、怪物と通り魔の姿がほとんど同じだったということで、特撮から抜け出してきたような存在だったとのことでした」
レポーターは、通り魔事件の現場と巨大な怪物の出現地点が近かったことなどを話したあと、兎姫乃がむせそうになることを言い出した。
「怪物に呼応するように現れたロボットのような怪物は、都内の高校の上空に現れたと情報がありました。警察関係者の話を聞いたところ、戦いが始まるとすぐに東京湾の沖へ移動したことから、もしかしたらロボットの怪物には誰か人間が乗っていたのではないかとのことでした」
「ロボットの怪物ってなんだ。ロボットでいいだろう」
伸哉は、レポーターの言い回しが気に入らないらしく、妙なところでツッコミを入れていた。
「はぁ、思い出しただけで怖い。通り魔だっていうから家の戸締まりをしてたら、急に地震が起きて、家の中はめちゃくちゃになるし、慌てて外に飛び出たら大きな化け物もいるし」
「君が無事で本当によかった。君がいなくなったら生きていく意味もない」
「もう、お父さんったら」
母が不安を訴えると父がすかさず愛をひけらかす。娘ながら、兎姫乃はいつまでたってもお熱い二人が苦手だった。
「現在、警察は高校の関係者へ話を聞きながらロボットの怪物に関係のありそうなことはないかと聞き込みしているとのことです」
見たくもない両親のいちゃつきと聞きたくもない世間の追求に、兎姫乃は居心地の悪さで肩身が狭くなる。
「ごちそうさまでした」
「もういいの?」
「食欲がないから」
「そう」
半分も残した兎姫乃の茶碗の中身を見て、友喜が悲しそうな顔をする。
「無理もない。不安がなくなる要素はなにもないからな」
娘の振る舞いに理解を示した伸哉は、微笑みを浮かべて兎姫乃の離席を促した。
兎姫乃は、理解ある父親に感謝しつつ自室へと戻る。
机の上のスマートフォンにアプリケーションの通知が三つほど入っていた。
ベッドへ腰掛けて確認すると、三つとも田中沙弥佳からだった。体育館の玄関で捕まったときに押し切られて、仕方なくアプリケーションのIDを交換したのだ。兎姫乃が望んで増やしたフレンドではない。
「田中さん暇なのかな」
兎姫乃は呆れつつも通知を確認する。
『マスコミが私の撮った映像をタダで寄こせとか言ってきて草。貧乏すぎるでしょ』
『警察が学校を調べてるんだって』
『同じ学年の高橋羽月って知ってる?』
最後の通知だけ脈絡がなくて、兎姫乃は意図を知りたくなった。この状況でその生徒の名前を出す意味はあるのか疑問だったのだ。愚痴や陰口をたたくようならブロックする口実にもなると思い、兎姫乃は返信をしたためる。
『その人知らない。なにかしたの?』
兎姫乃が返信すると、すぐに返事がきた。
『今炎上してる。高校生で読者モデルやってる子なんだけど、露出の高い格好で少年誌の表紙に載っただけで叩かれてるんだって』
兎姫乃は心底どうでもいいと思った。高校生モデルがどうなろうと興味ないのだ。
兎姫乃が、聞き流すための短い文章をフリック入力しようとしたとき、画面に見知った背中姿が現れた。
「え」
アプリケーションが勝手にスピーカー通話に切り替わる。
「兎姫乃、もう少し情報を引き出してくれ」
「が、ガユガインっ……!」
「この高橋という子は、アンチリアル体になりそうなんだ」
しれっと戻って来たガユガインの言葉に、兎姫乃の親指がわなわなと震えた。
アプリケーションを閉じると、ゴミ箱のある画面へスライドし、ガユガインをドラッグして放り込む。
『容量が大きすぎるため削除できません』
エラーメッセージが出た。
「頑張れよ!」
根性の足りないスマートフォンの処理能力に毒づく。
「こ、こら! いきなりゴミ箱へ入れるのはひどいぞ!」
柱状節理のような六角柱の肢体を持った鎧武者が、スマートフォンの中で腕を振り上げて抗議した。
「あんたこそなに勝手に覗いてるのよ?」
プライバシーを侵害されたことで、削除の正当性は担保されている。
「それはすまなかった。だが、新たなアンチリアル体が生まれそうなのだ。許してくれ」
「いや。むり。ゆるさない。ぜったいに」
「そ、そんな全力を尽くすほど許さないのか」
「うん」
兎姫乃は言い切った。もう二度とガユガイン絡みの戦いなんてしたくなかったのだ。
「アンチリアル体を放置すれば大変なことになるんだ」
「知らない。あんた一人でやればいい」
「前にも言ったが、私は戦うべき相手のために力を温存しなければならない。それ以外の敵と戦うなら君の力が必要なんだ」
「その勝手な理屈が気に入らないの」
「ならば、君の同級生がアンチリアル体になり、苦しむ姿を見るがいい」
取り合わない兎姫乃に対し、ガユガインも見きりをつけた。