一章 7
「うわ、思ったよりきれい」
兎姫乃は自分の書いた文章が映像化されたことで、言葉の感覚だけでしかつかめなかったものの正体を知り、ぽかんと口を開けて感動する。
突如現れたものを見上げた黄泉醜女は、よだれをだらだらと垂らし始める。鼻をひくつかせ、熟した香りを嗅ぎ取り、それが柿であると気付いた。
「あ、あ、食べるうううう!」
食欲の権化である黄泉醜女は、本能に逆らえず満月次郎柿へかぶりつく。果肉からこぼれ落ちる蜜で顔や髪をべとべとに濡らしながら、凄まじい勢いで柿を食べ散らかした。
「月を選んだのは素晴らしい」
「え、そう?」
「満ち欠けが、黄泉醜女を満たすだろう」
ガユガインの言葉に眉をひそめた。満ち欠けとなにかを掛けた覚えがなかったのだ。
満ちれば欠け、欠ければ満ちる。満月次郎柿は、その果実を再生させていた。黄泉醜女の食べる速度では、食べ尽くせないのは明らかだった。食欲の暴走した黄泉醜女は、柿の実が再生していることなど気付かないままに食べ進み、柿の中へ閉じ込められた。
「食べ続けられる怪物と食べきれない柿。見事なまでの矛盾の成立だ」
満月次郎柿は、元の姿に戻ったまま浮かび続けていたが、光の粒をまき散らして崩壊を始める。その崩壊で生まれた光の雨の中に黄泉醜女はいなかった。
「よくやった兎姫乃! アンチバーチャル体は消え去った!」
「う、うん」
母を守りたい一心でガユガインに協力し、文章を書いた。それなのに何か腑に落ちない結末を引いてしまったのである。これが浄化なのかと疑問しかなかった。黄泉醜女は、ガユガインや兎姫乃の望んだとおりに消えた。
兎姫乃は文学で誰かを消したいなどと思っていなかったのである。浄化の意味がわからなくなっていた。
そもそもアンチバーチャル体とはなんなのか。
ガユガインはどうして追われているのか。
アンチバーチャル体を撃退しなければならない理由は。
アンチバーチャル体はなぜ人間を殺すのか。
わからないことだらけだった。
「兎姫乃のスマートフォンが屋上にある。そこへ飛ぶぞ」
「え?」
自衛隊の飛行機や艦船に見張られたガユガインが、逃げるように電脳世界へ撤退する。ガユガインの中から見える電脳世界は、光のケーブルであやとりをしているような場所で絶えずうごめいているのだ。そのケーブルたちの動きを無視して、ガユガインはある一点の光を目指す。
「ここはなに?」
黄泉醜女を倒したあと、ガユガインの鎧は炎の勢いを鎮め、元通りの黒へ戻っていた。
「常世とつながった電脳の世界だ。本来は、もっと静かなんだ」
ガユガインの説明を聞き、ケーブルがうごめいている理由を見つける。
光のラインはネットワークの糸にあたるが、それに飛びついて揺らしている者たちがいた。
悪鬼である。
屈強な両手を持ち、ケーブルへ顔を近づけていた。
ネットワークを監視しているようだった。
「あいつら何しているの?」
「悪意ある言葉を探しているんだ」
「あんたは、あの鬼のことをアンチリアル体と言っていたけど」
「そうだ。実在する存在はリアル体だ。でも、悪意ある言葉で歪められた存在は、アンチリアル体、実在しない実在の存在になってしまう。そうなったら、文学で祓う他ない」
文学で祓うという言葉に違和感があった。
公園で助けた遠藤は、悪鬼を祓った感覚はあったのだ。
黄泉醜女からはそういう気配がない。消し去ったという罪悪感だけが残っていた。
「さっきの黄泉醜女と何が違うの?」
「アンチバーチャル体は、歪められた」
「歪められた?」
「この電脳世界も原因の一つなんだ。一つの物語が、ありもしないことを語るのはいい。ただその物語が複製されて、たくさんの人間が見るようになるとそれは現実になる」
「黄泉醜女はいなかったってこと?」
「いや、黄泉比良坂に存在はしていた。ただ、あんな化け物ではなかったんだ」
「え? なにそれ」
すこぶる奇妙な話だったが、遠藤に似ているところもあった。もともとの性質が変わってしまうことだと認識した。
「架空の存在が変貌してしまうと、それはもう祓うのではなく清めるしかない。姿形がなくなるほどに」
「ガユガインはどうしてそんなことをするの?」
兎姫乃は、ガユガインの立場を知ろうと思った。ガユガインもアンチバーチャル体なのだ。歪んでいない保証はなかった。
公園で遠藤を助けたことも、東京から黄泉醜女を引き離したことも、賞賛すべきことだと思いたかったのである。
「私も、どちらかと言えば清められる側だ」
「そう、なんだ」
許されざる存在に手を貸してしまったことに兎姫乃は身震いする。
「お母さんは無事かな」
それを認識するのが嫌で、話題を変えた。
「急いで確かめよう」
ガユガインが目指していた光の穴へ飛び込むと、兎姫乃は急に地面へ突き飛ばされるような感覚に襲われて、足をもつれさせて尻餅をついた。
「いったぁ」
「屋上に戻って来たな」
兎姫乃が落としたスマートフォンには傷一つなく、その隣に小さくなったガユガインがいる。その小さな姿に安心していた。もう戦わなくていいと思ったのだ。
「よかった」
呟いてから手が震えだした。ガユガインに乗っている間は平気だったのに、地へ足がついた途端に恐怖が沸いてきたのだ。一歩間違えば死んだかもしれない恐怖と、誰かが巻き込まれたかもしれない重責だった。
「兎姫乃、母親から電話が来ているぞ」
「本当!」
兎姫乃は震える足でなんとか立ち上がると、スマートフォンを拾い上げる。画面の時計は昼過ぎを示しており、『母』と素っ気ない登録名が出ていた。
「もしもし! 母さん!」
「ああ、兎姫乃! 良かった無事なの?」
「うん。母さんは?」
「大丈夫。今、近所で救助されてる人がいるみたいだけど」
「え」
「怪物に家ごと踏み潰されたの。私も危なかった」
「無事で……」
守りたいものが守れた安堵と危機一髪だった状況を知り、緊張の糸がふつりと切れて声が涙に変わる。
「私は大丈夫だから。兎姫乃は落ち着いてから帰ってきなさい」
「うん」
返事をして通話を終えると、兎姫乃はその場に座り込み涙の流れるままに任せた。
最悪を回避したのに恐怖だけがこびりついていたのだ。
母の死ぬ物語を考えたバカな娘だと自分を罵りたかった。失うかもしれないということだけでも涙に耐えられないのに、ひどいことを考えたものだと猛省する。もう二度と母が犠牲になる物語は考えないと。
「兎姫乃、私には頼れる人間が君しかいない。また力を貸してくれると助かる」
「嫌! ぜったいに嫌!」
兎姫乃は泣きながら拒絶した。
ガユガインの目的がなんだろうと知ったことではないし、無関係でありたかったのだ。
拒絶されたガユガインは、ビル風になびく兎姫乃の乱れ髪を見ながらなおも言葉を続けた。
「科戸の風の天の八重雲を吹き放つことの如く、朝の御霧、夕の御霧を朝風夕風の吹き払うことのごとく、兎姫乃の心に残るものがなくなりますように」
ガユガインの言葉は、兎姫乃になにかを求めるようなものではなかった。ゆっくりと吐き出されて、兎姫乃のまわりに静かに侍るような言葉だったのだ。
兎姫乃は、その言葉に反応する気も起きない。今はただ恐怖に震えていたかった。
「君の勇気は本物だった。また会おう」
ガユガインは、そう言い残して兎姫乃のスマートフォンではなく姿をにじませて風景へと溶けていった。
別れを本気で望んでいたのかと聞かれれば、望んでいなかったのだ。受け入れきれない感情で一杯になり、余裕がなかったのである。
「私に勇気なんて、ない」
勇気なんてものがあれば、こんな怖い思いに震えたりしないと涙ながらに考えていた。
高校の上をマスメディアのヘリコプターが通りすぎる。ヘリコプターへ積まれているカメラに撮られたくなくて、兎姫乃は腰を上げて校舎へと入った。
ガラスの破片が廊下へ散乱し、教室内の机や椅子は軒並み倒れていた。校舎の柱にはヒビが入っており、黄泉醜女が起こした災害の大きさを目の当たりにする。
兎姫乃はガラスの散らばる階段を恐る恐る降りながら、クラスメイト達へ追いつくために体育館へ向かった。今は、ガユガイン以外の存在と言葉を交したかったのだ。
体育館には救急車が横付けされており、中から負傷者を運び出していた。
「あ、鈴木さん?」
「あ」
兎姫乃に電話をするよう勧めてくれた後ろの席の女子が声を掛けてきた。兎姫乃はあいにくと名前を覚えていなかったが、田中沙弥佳という女子だった。
「大丈夫だった? 鈴木さんだけいなくて先生が探し回ってたけど」
「う、うん。なんとか」
「地震とか怪物同士の戦いとか怖かったよね?」
「うん」
相手の名前もわからないのに必死に話を合わせた。一般人に混ざって埋没してしまいたいのである。
沙弥佳は、そんな兎姫乃の心情を無視して声を潜めた。
「実は、私も校舎に残って動画を撮ってたんだけど、鈴木さんも良いの取れた?」
「え?」
沙弥佳の思いがけない告白に頭がついていかない。
「鈴木さんも撮影してたんじゃないの?」
「私はしてない。電話をしてたら逃げられなくなっただけ」
「え、こんな時間まで?」
「あ、うん。腰が抜けちゃって」
先ほどスマートフォンで確認した時間を思い出し、避難から数時間経っていることもふまえて、慌てて理由をこしらえる。
「なぁんだ。じゃあさ、ちょっと見てよ。すごいから!」
兎姫乃の嘘にあっさりと騙されたことへ安堵した。
この異常事態で興奮しきった沙弥佳は、スマートフォンを横にして、取れたての動画を再生する。誰かに見てもらいたくて仕方ないのだ。
沙弥佳の動画は校舎の割れた窓から撮影されたもので、墨色の甲冑を着たガユガインが黄泉醜女と組み合っている姿が映されていた。特筆すべきはその迫力だった。高校の校舎の何倍も大きな巨体が、空を覆うように組み合っているのだ。腕と腕がぶつかる度に金属の悲鳴が録音されていた。
「どう?」
「すごい、ね」
とりあえず愛想を良くするために同意する。
「でしょ? SNSに流せばテレビ局が食いつくよこれ。でも、タダじゃ売らないんだ。お小遣いにしたいし」
たくましい沙弥佳の算段に苦笑いをした。
「でもさ、なんで後から出たロボットみたいなのは東京を守ってくれたのかな?」
「え?」
「警察や自衛隊にもどうにもならないヤツを引き受けてくれたでしょ? お礼くらい言いたいよね」
「そ、そうだね」
「鈴木さんのお母さんは無事だった?」
「うん」
沙弥佳の図々しい質問にも付き合いきれなくなってきていたので、そろそろ切り上げたいと思っていたところだった。
「なら、鈴木さんは絶対にお礼を言わないとダメだよ? 助けてもらったんだから」
沙弥佳は礼節を重んじるようで、兎姫乃へ念を押した。
「そうする」
親しい間柄でもない沙弥佳に押し切られ、兎姫乃は頬を強ばらせたまま頷いた。