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一章 6

 小説が好きなのに、望みもしない縁を結び始めるのはなんなのか。小説をインターネットに公開しなければ良かったのだと納得する。今更言ってもしかたないことなので、諦めた。母を救うために現実に対処しなければならない。


 兎姫乃は万年筆を受け取った。すべすべした漆細工のような柄の先に金色のペン先があり、太陽の光が反射している。ずっしりと重く、どんなインクが含まれているのかと考えたり、この万年筆で執筆したらすぐに疲れるだろうなどと考えたりした。



「来たれ! 物語る司人よ!」



 秋晴れの屋上に第二の太陽が現れる。


 兎姫乃が掲げたペン先から、目の潰れるような光があふれ出し辺りを包み込んだのだ。視界を埋め尽くす光量に景色が吹き飛ばされ、妙な浮遊感さえ覚えた。目を閉じてあやふやな足場を踏みしめ、倒れないように気をつけていると、黄泉醜女が地面を踏みしめる音が鳴り響いた。



「これっていつまでなの!」


「もう終わったぞ」


「う!」



 視界が高く、広かった。東京のシンボルより上に放り出されて、都会を見下ろしていたのだ。


 兎姫乃がいるのは雲の上だった。雲に乗って立っているのだ。声が聞こえたはずのガユガインの姿もなく、万年筆を片手に立ち尽くしている。真っ白い綿雲が膝小僧をくすぐる光景に、心躍る暇が欲しくなるほどであった。踏み心地は柔らかく、膝から下をがっちりというほどではないが、しっかりと包み込まれ、簡単には倒れないようになっていた。



「な、なにここ?」


「そこは私の中だ。君は今、巨大な私の中にいる」


「え」


「君には、いや兎姫乃にはそこで文学を書いてもらう」


「え、なに言ってるのかわからないです」


「黄泉醜女は」



 ガユガインが言いかけたとき、板橋区で住人を踏み潰していた黄泉醜女がふわりと浮き上がって兎姫乃へ牙をむき出しにする。



「わぁっ!」


「くっ、まだ説明の途中だぞ!」



 兎姫乃の立つ雲が揺れた。


 兎姫乃からガユガインの身体は見えない。


 黄泉醜女は、見えないなにかと組み合っていた。



「ど、どうすればいいの!」


「た、食べ物を!」



 ガユガインが苦しそうな声を出す。



「は?」


「この黄泉醜女を満足させるような食べ物を書くんだ!」


「書くってどうやって!」


「渡した八百万の御代筆を構えて念じるんだ!」


「構えて、念じるって」



 一から十までガユガインの説明はよくわからなかった。


 言われたとおりに万年筆を構えると、パソコンでワープロソフトを立ち上げたときのような高揚感が生まれる。なにかを書かなければならない衝動に駆られた。ペンを持っていると沸き上がる作家の本能であった。



「そうだ! それでいい! 力が漲ってくる!」



 兎姫乃がまだなにも書いていないのに、足下の雲が黄金色へ変わっていく。黄昏の雲から光があふれ出し、兎姫乃の創作欲を駆り立てた。



「思考の中で紡がれるただならぬ言葉こそ我が力なり!」



 ガユガインにも力があふれ、拮抗していた黄泉醜女を押し返す。


 巨体が東京の上空で浮遊するのを見て、兎姫乃は我に返った。



「待って! ここで戦ったら大変なことになる! せめて海の上で!」


「む、そうだな」



 ガユガインは、兎姫乃の提案へ素直に従い東京湾へと転身する。


 兎姫乃にとっては西遊記に出てくる雲に乗る気分であった。



「追って来てる!」



 兎姫乃が振り返ると、黄泉醜女も空を飛んでガユガインを追っているようだった。



「言ったはずだ。奴は私を追っていると!」


「なんでよ!」


「命令されているのだ。もっと偉い奴に」


「誰に?」


「黄泉の国の才媛、菊理媛(くくりひめ)だ」


「誰よそれ」



 ガユガインの語る知識についていけてないことが歯がゆかった。黄泉の国は日本の昔話だということはわかるのだ。



「さて、ここからが本番だ」



 ガユガインが東京湾の沖で止まり、黄泉醜女を迎え撃つ。


 波は高く風は強い。潮の流れは狂ったようにうねり、落ちれば溺れると悟った。


 荒れた海に反して空はどこまでも青く、雲はまばらである。穏やかなものとそうでないものに挟まれて、兎姫乃は冷静でいることよりも柔軟であることを選んだ。



「食べ物を書けば良いのよね?」


「そうだ。兎姫乃の文学の力、ひしひしと感じるぞ!」


「まだなにも書いてないけど?」


「文学は頭の中に生まれるものだ。知らないとは言わせない」


「う、わかるのが嫌」



 小説を書き始めてから、文章は頭の中を渦巻くなにかから生まれてくることを知っていた。


 兎姫乃の頭にはたくさんの食べ物が渦巻いている。今にも襲いかかってきそうな黄泉醜女へ食わせるにはなにが良いか考えているのだ。まるで読者のターゲッティングである。大昔の女性という属性から、素朴な味わいの追求が正しいように思われた。



「よし」



 兎姫乃は、秋の旬としてスーパーに並んでいた柿を描写することにした。


 八百万の御代筆を指先でくるくるとペン回ししてから、黒板へ筆記するかのように中空へ光の墨筆を刻む。



「え、なにこれすごい!」



 ガユガインから受け取った万年筆の機能に感動もした。文字を書こうとした瞬間に文字が刻まれているのだ。頭の中にある文字が神経や肉体に隔たれることなく出力されるのである。この新しいツールに兎姫乃がときめかないはずがなかった。頭の中のものがよどみなく出力される快感に興奮しつつ、筆を走らせる。



 『一口で桃と間違えるほどの濃密な汁が流れ出す。皮は絹のように柔らかく、噛まれた

 瞬間に引き裂かれる。果肉はほどよい硬さを残し、種はない。口に広がる甘みが、満腹

 中枢を刺激して多幸感に包まれた』



「奴に満腹中枢はない。あと大きさを書き忘れているぞ。人間のよく知る柿など腹の足しにもならない」


「は?」



 そこまで書くとガユガインがダメ出しをしてきた。


 ガユガインは、再び黄泉醜女と取っ組み合いをしている。兎姫乃には大迫力の黄泉醜女が見えていた。兎姫乃の文学の力のおかげで、ガユガインは黄泉醜女に引けを取らない力を発揮し、ダメ出しができるくらいの余裕を見せているのだ。



「ふさわしく適当な描写を心がけるんだ」


「うるさいなぁ」



 余計なお世話だと思いつつも、生鮮食品棚に陳列されている五個入りの柿を一袋描写したとして、電波塔なみに大きな黄泉醜女を満足させられるはずがないと思えたのである。


 兎姫乃が頭の中で満腹中枢に替わる新たな描写を考え始めると、書いてあった文章がぼやけて消えた。そこへ新たな文章を書き加える。



 『口に広がる甘みが、舌を踊らせるほど強く、多幸感に包まれた』



「それでいい」


「次は大きさか」



 『その柿は、地球の全人口でも食べ尽くせないほどの大きさで』

 そこまで書いてから兎姫乃はバカバカしい大きさで現実味がないと考え直そうとした。



「奴は、食べることに関しては化け物の中の化け物だ。そのまま続けてくれ」


「書いた文章はどうなるの?」


「実現する」


「だったら、なおさら物理法則的にまずいでしょ。こんな大質量の柿なんて地球がおかしくなる」



 自分の書いた大きな柿で日本がつぶれたり津波に襲われたりしたら、たまったものではなかった。



「あぁ、その心配はない。あくまで架空として実現するだけだ」



 ガユガインの説明を聞いていると、兎姫乃たちの上を戦闘機が掠め飛んでいくのが見えた。海にはモスグリーンのイージス艦まで走っている。



「急ぐんだ。黄泉醜女が気付けば、人間に被害が出てしまう!」


「わ、わかった」



 災害派遣で活躍する自衛隊のためにも兎姫乃は描写を完成させることへ集中した。



 『その柿は、地球の全人口でも食べ尽くせないほどの大きさで、夜空に浮かぶ月に匹敵

 した。そのため満月次郎柿と呼ばれている』



「できた!」



 兎姫乃が告げると手の中の万年筆が消え、巨大化したガユガインに相応しい大きさへ変わった八百万の御代筆が空中に現れる。


 足下の雲が黄金色に輝きだした。



「いい名前だ!」



 ガユガインは黄泉醜女を突き放した後、御代筆をひっつかんで上段に構えた。着込んだ墨色の甲冑から炎が吹き上がり、海面を真っ赤に照らす。



「筆倒両断!」



 黄泉醜女が体勢を立て直す前に、筆が振り下ろされた。


 兎姫乃の書いた文章が、光の粒子のフォントで出力され、両者の空間へ現れる。その粒子たちは文章の形から一点に凝縮し、絹の光沢を持った銀色の衛星へと生まれ変わったのだ。


 東京湾の上に、満月の名を冠する巨大な柿が出現した。

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