一章 4
家族との夕飯を終えた兎姫乃は、早速ガユガインとの読書感想会に臨んだ。
「さぁ、聞かせて」
どこにでもいるような普通の両親との食事の間、ずっと考えていたことがある。
ガユガインとの協力を終える方法だ。
ガユガインからの感想や指摘が有益でない場合には、協力関係を破棄しようと考えていたのである。感想や指摘をもらっておきながら相手の要請には応じないのは、兎姫乃の信条からしても抵抗のあることだったが、ガユガインという卑劣な相手ならば兎姫乃も非情になれた。
兎姫乃はベッドへ腰掛けて足を組む。
ガユガインは、学習机の上に立っていた。
目線の高さがちょうど合う。
兎姫乃は、ガユガインの琥珀色の瞳を見て、瞬きしていることに気付いた。パソコンへ入り込んだり、人間のように口を開く様子から、金属の塊でないことだけは想像がつく。ただ、それが現実に現れて、人間へ取り憑いた化け物と戦っていることが不思議だった。正義の味方などという理由だったら、まともな感想や指摘をもらったとしても協力は解消するべきだと考えたのである。ガユガインにとっての正義は、兎姫乃にとっての正義にはなり得ないのだ。
「なにから聞きたい?」
「じゃあ感想から」
「この小説は小動物を救うための物語で、ハッピーエンドを目指したものと読んだが、どうだ?」
「その通り」
「ふむ、だとしたら私は感動しなかった。私はこのような身体だが、血も涙もない訳ではない。それなのに最後、主人公を支えに支えた忠犬が、命からがら助け出された瞬間を読んでもなんの感慨も覚えなかった」
「なんで?」
兎姫乃は率直な感想を怖れていただけに、平静を保てているだけでなくさらに質問までしていることに驚いていた。
小説投稿サイトに君臨する猛者たちは、嫉妬や悪意ある感想を得ることがある。他人の小説に貼り付けられた貶すような感想を見てから、感想を募ることが怖かったのだ。
ガユガインに読ませた小説は、クライマックスを泣きながら書いたのである。感動しながら書いたものが、共感を得られなかった。それに不満もあったのだ。
「最後の場面についてだが、人によっては感動するものだと思う。ただ、そこへ至るまでにすんなりと物語が続いていなかったのが原因だろう」
ガユガインの指摘に、兎姫乃は反論できなかった。
すんなりと続かない物語というのは、兎姫乃もうっすらと感じていたことだったのだ。己の未熟な部分を突かれると、ぐうの音も出なかった。
悔しいことに、ガユガインが真剣に兎姫乃の小説を読んだことへ嬉しくなっていた。
その喜びが表に現れないよう、兎姫乃は頬を引き締めて、謙虚な気持ちで聞くことにする。
「どこがおかしかった?」
「とにかく、相棒となる犬を取り上げる部分だ。最後に感動を呼び起こしたいなら、犬が可愛いという話ではなく、かけがえのない家族だという話を盛り込まなくてはならないだろう」
「そんなことしたら、ピンチになるシーンでまともに読めなくなる」
兎姫乃は、物語の緩急として動物が苦しむようなシーンを書いていたが、はっきりいって胃が痛むほどやり過ぎた部分だった。
「物語はそれでも続く。手加減は無用だ。一つ褒めておくとすれば、私はあそこまで犬に非情なシーンを思いつくことはない。君は、動物虐待を見たことがあるのか、あるいは、その、才能があるのだろう。うむ」
ガユガインが、犬がピンチに陥るシーンを思い出したのか、言葉に動揺を見せた。
「なにそれ、嬉しくないんだけど」
兎姫乃は思わず苦笑する。自分に動物虐待の才能を見いだされたことも、ガユガインの人間のような振る舞いもおかしいことだった。
「私も一つ確認したいんだけど」
「なんだ?」
「あんたは、誰かが操っている存在なの? 人間みたいなんだけど」
「私は人間ではない。日本で生まれ、日本で果てるべき存在だ」
「余計わからないんだけど」
「さぁ、そちらの利益は満たした。今度はこちらの要望に応えてもらう」
「私の安全は保障されるんだよね?」
「ああ、約束する」
最も重要な条件を確認したものの、まだ物足りなさを感じた。
悪鬼の恐怖に釣り合うものが得られたとは思わなかったのだ。
地面が揺らぐほどの拳をもし受けてしまったら二度と小説なんて書けない。運良く書けたとしても、それをネタに書いたところで誰も信じない。
座っている掛け布団を握りしめた手は、血の気が引いたように白くなっていた。
「でも、私は怖い。あんたのやりたいことに協力できない」
さんざん感想や指摘をもらっておきながらと自己嫌悪があるものの、やはり悪鬼に追い回された恐怖は拭えるものでもなければ、なくなるものでもなかった。
「そうか。当然かもしれない。だが、覚えておいて欲しい。人の心に棲みつく悪鬼を祓えるとしたら、それこそ文学に他ならない。ハッピーエンドを望む君には、それができるんだ」
ガユガインは、そういうとパソコンのモニターへと沈み込んで行った。
「ねぇ、あんたはどこから来たの?」
協力を断っておきながら、ガユガインの素性やプライベートを探る。本当に卑しい人間だと、一貫性のない自分が嫌いになった。
「一年ほど前、電脳世界はある場所とつながった」
「どこと?」
「常世だ」
耳慣れない言葉だった。
でも、日本語のようだった。
それくらいは自分で調べられると思い、説明を求めなかった。
ガユガインはそれきり姿を消した。ネットワークの向こう側、常世へ帰ったのだと兎姫乃は思った。
翌朝、高校へ行く支度をしているときに、鞄へ詰め込もうとした電子辞書で常世という言葉を調べた。
永久に変わらない不変の世界。
古代日本人が考えた海の向こうにある神様の国。
そんな言葉だった。
「神様の国ってことは、あいつは神様? いやいやいや、ないないない」
独りごちてから頭を振る。あんなロボットみたいなものが神様なはずがないと思ったのである。兎姫乃の想像する神様は、もっと人間に近い姿をしており、神社なんかで見守ってくれる存在だった。
「大言壮語の妄言だ」
ガユガインの言葉を切り捨てて、兎姫乃は部屋を出た。
「気をつけてね」
「うん」
食卓で一人朝食を取る母へ返事をして家を出る。
父親はすでに出社していた。
母親は専業主婦で、父親はサラリーマン。現代では珍しい分業型の家庭だった。その家庭の一人娘が兎姫乃だった。
一人っ子のせいか他人に合わせるということが理解できず、小学校では独りぼっちで過ごしていた。そのおかげで本を静かに読むことができたのだが、中学校ではそうも行かなかった。友達とか先輩とかそういうものとつるまないといけない空気があり、面倒だと思いながら文芸部へと入部し、そこで小説を書く楽しみを知った。同時に、嫌な思い出もできた。高校では帰宅部になると心へ決めて、帰っては小説を書くという日々を過ごしていたのだ。それに不満はない。
朝の通学に使う電車は毎日混雑していて、座れることは稀だった。
ガユガインなどというふざけた存在と出会った翌日くらい座って高校へ行きたいという思いから、開閉ドアへ愚痴をぶつける。
「文芸部なんて入らなきゃよかった」
小説を書くなんてことをしていなければ、ガユガインに目を付けられることはなかったのだ。
電車を降りて高校へ到着すれば、騒がしい教室へ入るのも嫌になってきた。このまま回れ右をして帰りたいと何度も思うほどクラスに馴染めていないのである。
「おい、聞いたか。殺人事件が近くであったらしい」
「は、マジで? どの辺?」
「板橋区だって」
兎姫乃の席の前に座る男子がそんな噂話をしていた。
内心では関心を持ちつつ、仲が良いわけでもない男子の会話に混ざることはなかった。席へ座ったら心を閉ざして読みかけの小説を読む。そういう風に決めているのだ。ただ、噂話のことだけは頭の片隅に置いておいた。
なにせ兎姫乃の家は、板橋区にあるのだ。
ふと、昨日の悪鬼が現れたことと関係があるのかと想像が巡ってしまう。学校で授業を聞いている時などにもあることで、インスピレーションを誘発する言葉や話を聞いてしまうと物語が走り出してしまうのだ。そのおかげで授業を聞いていないということも多々あり、困った癖がついたと思っていた。そして例に漏れず、地元で起きた殺人事件で妄想を膨らませて、小説は一行も読めずに兎姫乃はホームルームへ入るのだった。
「座れー! 大事な話がある!」
いつもと違う雰囲気で担任の男性教師が教室へ入ってきた。