終章
「兎姫乃!」
「ん?」
新幹線を降りた新宿駅で、高橋羽月が声を掛けてきた。
「めっちゃ楽しかったね!」
羽月とは、甲府で合流し、兎姫乃の両親と一緒に果物狩りをしたり、カラオケに行ったりしたのだ。二人で温泉にも入ったのである。グラビアモデルの裸体を見て、教育熱心な母親が正気を失うのも納得できた。
兎姫乃は、高校生にもなって友人との付き合い方を知らなかったので両親の存在がありがたかった。それらのイベントも兎姫乃の琴線にはなにも触れず、ガユガインとの別れをしっかりできなかった後悔に落ち込み続けるだった。
そんな兎姫乃を羽月はよく気遣ってくれたのである。
「うん」
お愛想レベルの相槌を打つと、羽月がふと遠い目をする。
「東京に帰って来たけど、まだ本調子じゃないよね」
羽月が眺めていたのは、菊理媛に破壊されたビルだった。
高層建築であり、残骸の撤去が進んでおらず、無残な姿をさらし続けている。
イザナミとの決戦から二週間経ち、東京は傷跡もそのままに経済活動を再開し始めていた。たくましいといえばたくましい姿である。
「戒厳令はなくなったけど、まだまだ怪物の影に怯えてる」
新宿駅を行き交う人の中には、なにかに怯えるように構内の天井を見上げる人がいるのを、作家として修行中の兎姫乃は見逃さなかった。
空気は確実に変わっていたのだ。
東京に充満していた乾ききって殺伐としていた空気が、いつでもパニックになりそうな緊張感を漂わせているのである。とても人間らしい、血も涙もある温かい空気になっていた。
その証拠に、駅を飛び交う言葉の中にありがとうや助かりますといった感謝の言葉がある。危機に対して団結するところは、兎姫乃が好むところであった。
「しばらくは無理だね」
羽月が同意を示していると、伸哉と友喜がやってきた。
伸哉は会社へ電話をし、友喜はお手洗いに行っていたのだ。
「羽月ちゃん。車で送っていくから、家まで一緒に行くかい?」
「え、いいんですか? ありがとうございます!」
伸哉は、娘とは対照的な羽月を気に入り、すっかり世話を焼くようになっていた。
「車は道路に置きっぱなしじゃないの?」
兎姫乃は、友人へ取り入ろうとする父親が気色悪くて意地の悪い質問をする。
「車も取りに行く。その後に送っていくさ。羽月ちゃんには兎姫乃が世話になったから、家で少しおもてなしもしたい」
伸哉の目は、兎姫乃のためでもあるという妙な力の入りようだった。
父親の意図が、娘の貴重な友人を逃すまいとしている所にあるのがわかり、諦めて父の思い通りに従うことにする。
新宿駅から自宅の最寄り駅まで電車で向かった。駅には、タクシーやバスが止まっており、兎姫乃の見知った光景が取り戻されていた。
二人ずつ別れてタクシーへ乗り、兎姫乃の家へ向かう。
兎姫乃の家がある板橋区は、ガユガインが何度か現れた場所だ。屋根が潰されたり、電線が引きちぎられたりと痛々しい光景が広がっている。その無傷でない光景の中で、何人もの区民が歩いているのを見た。生活しているのを見た。その顔に苦渋の色が濃く現れているのを見た。
兎姫乃は、板橋区の光景を羽月の隣で眺めながら心を痛める。
反省する側だったからだ。
家へ着くと、兎姫乃の両親はダイニングテーブルへ羽月を座らせて、お茶やお菓子を出して歓待した。羽月も家族のように接することが嬉しいのか、嫌な顔もせずにもてなされている。
兎姫乃は、両親と友人を見ているとむずむずとしてきて、荷物を片付けるという口実を作って自分の部屋へ撤退した。
約束を確かめるためであった。
二週間。
ガユガインと別れてから、この日のことしか頭になかったのだ。
ガユガインが、本当に兎姫乃の小説を読んでくれたのかずっと気になっていた。
荷物をベッドの上に放り出すと、すぐにノートパソコンの電源を入れる。
兎姫乃は立ったまま画面をじっと見ていた。
スリープ状態だったパソコンはすぐに画面を明るくし、表示されたままのエディターを映す。
兎姫乃の小説が書かれたファイルが開かれていた。
一ページ目のままだった。
兎姫乃は、書き終った後、ガユガインへ読ませるために一ページにしたまま電源を落としていたのだ。
「はぁ」
兎姫乃は、立ったままでいるのが辛くなり、机の椅子へ座った。
強烈な頭痛が襲ってきたのだ。二週間も気を張っていた状態で落胆したものだから気分が優れなかった。
「読んでもらえなかったか」
ズキズキと痛む頭を持ち上げて天井を見上げる。
ガユガインと最後に別れたとき、悪鬼の群れに囲まれていた。消えるまでに時間はあってもあれだけの群れに八百万の御代筆もなく挑んだのだ。時間切れになるのは無理もないと思った。
ガユガインに指摘を受けて書き直した小説。
高校生になって初めて他人の評価から書き直した小説。
それを一番読んでもらいたい存在へ読んでもらえなかったのである。
泣くに泣けなかった。
兎姫乃は、ガユガインにワガママを言って終わったのだ。
最初から最後まで、ガユガインへ優しくなどできなかったし、感謝の言葉も伝えることができなかった。
悲しみよりも悔しさの方が勝り、奥歯を噛みしめる。
小説を書いているくせに、どうして小説の中の主人公のようにうまくやれないのかとやるせなかった。
天井を見上げていても仕方ないので、兎姫乃は画面に向き直る。
現実を見ようと思った。
しばらく小説を書きたくないとすら思った。
だからと言って小説が嫌いになるわけでもなく、兎姫乃は字面を眺めていると物語へ引き込まれていった。
兎姫乃が書いたのだから、最も心地の良い文章が並んでいる。
そのまま最後まで読み通すと、兎姫乃の納得いく結末が現れた。
「ん?」
結末の先に文字が見えたのだ。
「あ」
マウスのホイールを回す指に力が入り、その付け足された文章を通り過ぎた。
「ちっ」
冷静になれない指先へ舌打ちしながら、痕跡を見つける。
『読ませてもらった。かなり良くなっている。家族を失う恐怖と悲しみを上手く書けていたと思う。最後は、家族を失わずにすんだことで感動も大きい。良い小説だった』
短いながら、感想が書き込まれていた。
ガユガインの感想だ。
約束を守ってくれたのだ。
兎姫乃は、短い文章を何度も読み返すうちに顔を両手で押さえた。
こんな感想をもらうくらいなら、感謝の言葉でも伝えるべきだった。
戦いの苦労を労うべきだったのだ。
強烈な後悔に苛まれて、涙を止めることができない。
ありがとう。
ちがう。
私はバカだ。
もっとできることがあった。
兎姫乃の冷静な部分が、不適切だった行動を涙とともに断罪していく。
なにも声に、言葉にならない。
約束をしてくれたことに。約束を守ってくれたことに。小説を読んでくれたことに。
感謝と後悔が混ざり合い、涙にしかならなかった。
寂しかった。
兎姫乃にとっての唯一の読者だった。
兎姫乃は、小説をガユガインの墓にするつもりはなかった。
涙の枯れた醜い女神がイザナミではなく、自分へ乗り移るような恐ろしさに襲われた。
「こんなの!」
兎姫乃はマウスを操作してガユガインの残した言葉を選択した。デリートを押せばイザナミに張り付いていた蛆のように消えてしまう。
衝動が、ガユガインの存在した唯一の痕跡を消しそうになる。
「こんなの……」
羽月が、兎姫乃の言葉を嬉しそうに抱いている姿が思い浮かんだ。
羽月にはできたのだ。
兎姫乃にもできるはずだった。
兎姫乃は、ガユガインの感想を消すことはなく、その感想へお礼を書く。
『どうだ。まいったかガユガイン。読んでくれてありがとう』
涙がどうにも止まらなかった。
文字でお礼を書いたとき、ガユガインが生きているような気がしたのだ。




