四章 6
兎姫乃は、兎姫乃の書きたいことが書けたことにしばらく気づけなかった。
興奮した頭が空回りして、言葉の在庫がからっぽなのに右往左往する。
「と、き、の……」
ガユガインの声が消えかけていた。
兎姫乃は、雲の浮き輪からずり落ちそうになりながら叫んだ。
「できた! 完成!」
兎姫乃の書いた文章は、壁面に吹き付けた砂粒のように崩れ去る。
「嘘……」
跡形もなく消えた小説に間に合わなかったと悟った。
「あ!」
兎姫乃の体が雲から落ちる。
冷たい風が兎姫乃を包んだ。
ガユガインの熱が消えたのだ。
スカートがめくれ上がる気配を感じて思わず抑えた。天地が逆さまになり、兎姫乃は頭から地面へ落ちていく。スカートを抑えた手には、御代筆のレプリカが残っていた。
東京に張り巡らされた黒い雲の中を伏雷が明滅しながら兎姫乃へ迫る。東京のあちこちで、火の雷の仕業であろう火の手が上がっていた。
「くっ」
地面へ衝突するには、まだ猶予がある。
兎姫乃はスカートから右手を離し、手の中のものを確認した。
太陽の色をした万年筆は熱いままだ。
「一か八かっ!」
兎姫乃は落下しながら仰向けになって、鳴雷が轟く空へ万年筆を掲げる。
「来たれ! 物語る司人よ!」
兎姫乃の叫びに反応したのは、黄色い稲光の柝雷だった。
兎姫乃を打ちのめそうと蛇行しながら向かってくる。
兎姫乃は感電死を覚悟し、目をつぶった。
小説へ夢中になりすぎてダメになるのは、自分らしい最後だと諦めがつく。
まぶたで作った暗闇が白けた。
雷の持つ数万ボルトと言われる電圧が来たのだと痛みに怯えるも、神経を乱される電流の痺れや脳を焼き切られる痛みはない。
楽に死ねたのだと思い、目を開けた。
「あれ?」
兎姫乃は暖かい風に覆われていた。
白い雲に横たわっていた。
「兎姫乃の小説を読んでいたら遅くなってしまった」
ガユガインの声が聞こえていた。
「は?」
巨大な手が、柝雷を掴んで押さえ込みながら言葉を続ける。
「まぁ、君も締め切りを守らなかったから、おあいこでいいだろう」
あまりの言い草に兎姫乃もスイッチが入った。雲の上で立ち上がり、ガユガインの頭がある天上へ向かって吼える。
「はぁっ? 私を放り出しておいてよくもそんなことが言えるな! だいたい、避けて時間を稼ぐとか言ってたのに捕まってボコボコにやられてる方がおかしい!」
「な、私とて最大の努力をしていたのに兎姫乃は、私の活躍を見ていなかっただろう。しかも声を掛けても無視ばかりして、少しは非礼を反省したらどうだ!」
「そんなことより、私の小説はどうだった!」
「文句なしだ! 瀬織津姫を試す!」
言い争いからシームレスに戦闘へ戻り、ガユガインは掴んでいた柝雷を盾にして不意打ちを仕掛けてきた伏雷の攻撃をしのいだ。
「同じ手には掛からん!」
同士討ちを決めたあと、ガユガインはイザナミへ向けて、八百万の御代筆を正眼に構えた。
「一筆涙千!」
上下から仕掛けてきた鳴雷と伏雷の攻撃は空を切る。
ガユガインが、イザナミへ向かってまっすぐに猛然と加速したのだ。炎剛の鎧の背面や足の裏から炎が噴出する。
「うおおおおおお!」
正面から火の雷の炎と大雷の雷が迫るも、ガユガインは御代筆で巧みに捌いて進路を変更しなかった。
「いっけえええええ!」
兎姫乃も声を上げずにいられなかった。
加速のついた御代筆の一突きが、イザナミの額へ決まる。
ガユガインの突貫を止められなかった鳴雷が、悔しそうに遠雷を轟かせた。
炎剛の鎧に雨が落ち、音を立てて白い水蒸気を立ち上らせる。
「雨?」
「涙だ」
ガユガインはイザナミから距離を取り、油断なく御代筆を構えた。
東京を覆っていた黒雲が消え、空を走っていた土雷も見えなくなっていた。やかましく鳴り響いていた雷神たちも姿を消し、火の手も鎮火している。
雷神たちが消え、イザナミだけが残っていた。そのイザナミは、顔を押さえて肩をふるわせているのだ。
「泣いてるの?」
「ああ、兎姫乃の小説で刺さる言葉があったのだろう」
「よかった」
小説を書いた達成感とイザナミへ期待どおりの読後感を味わわせた事に安堵する。
兎姫乃の立つ雲の下で、建物が崩れさった。
「え、なに?」
兎姫乃は、雲の端から下を見下ろすと、白いヌメヌメとした球体が東京を走り回っていた。
「あの蛆はなんで消えないの?」
「黄泉の国へ行くには、肉体を捨てて御魂になることが条件になっている」
「私の知らないことがまた出てきた」
兎姫乃は、ガユガインから出てくるうんちくに呆れる。
「本来なら、御魂に蛆などわくはずがないんだ」
「ようは悪意ってことでしょ?」
モデルを破廉恥扱いしたり、命がけで子供を産んだ母親を腐った死体などと言ったり、迷惑な表現であると兎姫乃は思う。
「ああ、雷神とは別の悪意だ」
「え?」
「私は、あのウジ虫どもを焼き払うためにここまで来た!」
「あ、そう」
「兎姫乃には感謝している!」
ガユガインが八百万の御代筆を構えると、炎剛の鎧から立ち上る炎がさらに燃えさかった。
口を覆っていた炭の頬当ても赤熱し、ガユガインの闘志に反応する。
「あと少しなんだね」
「ああ、すぐに終わらせる!」
ガユガインは、御代筆を振るって文字を刻む。染色体のような紐状の不可思議な文字が縦に並んでいき、悲嘆に暮れるイザナミを救おうとしていた。
東京は、雷神たちに荒らされてJアラートすら鳴らなくなり、静まりかえっている。戦闘機もヘリコプターも現れず、ただの夜が音も光もなく成り行きを見守っていた。
兎姫乃はやるべきことをやった。
ガユガインを目的地まで送り届けたのだ。
あとは、ガユガインが目的を果たすのを見届けるだけだった。
その後にある別れだって忘れてはない。
兎姫乃は、どうにかしてガユガインに小説を読ませる方法はないかと考えた。イザナミを浄化したら、すぐに消えるわけでもないと楽観していたのである。
「イザナミよ、長きにわたる汚名から解かれ、名誉を回復なされよ!」
ガユガインが小説を書き終えた。
兎姫乃は、今更ながらガユガインの書いた物語を読んでみたいと思う。どんな物語で、御魂を汚す悪意を浄化するのか知りたかった。
「火筆釘星!」
炎の釘が、蛆の数だけ現れて的確に蛆へ突き刺さる。炎の釘は地上で暴れる蛆にも残らず突き刺さり、炎を注入して焼却を始めた。
「うえぇ」
兎姫乃は、イザナミの顔に沸く蛆のすべてに炎の釘が打ち込まれてなにかショッキングなホラー映画でも見ているような気分になる。顔中を釘だらけにした姿は、本当に救われているのかさえ怪しかった。
ただ、火の雷の付け火を見ているだけに、ガユガインの起こす火はどれもちいさく蛆を暴れさせるだけで退治しているようには見えない。
「これって、時間が掛かるの?」
「いや」
兎姫乃が尋ねると、ガユガインは答えにくそうに否定した。
「私の罪が足りないのだ。炎が弱すぎる」
ガユガインは、己の罪と引き替えに蛆を焼き払う算段だったのだ。菊理媛という予定外の相手と戦ったがために、蛆を倒すことができなくなっていた。
「まったく、最後まで世話の焼ける」
「兎姫乃、ここへ来て頼むのは申し訳ないが」
「はいはい、火を追加で書けばいいんでしょ?」
「頼めるか?」
「もちろん!」
悪い気はしない。
兎姫乃は、くるくると御代筆のレプリカをペン回しして、盛大に燃やしてやろうと想像を働かせた。
「あんたも書きなさいよ」
「む?」
「せっかくだからさ」
「いいだろう。先は譲る」
「それじゃ、しつこい悪意の大掃除を開始する!」
兎姫乃はガユガインの中で、蛆ではなく悪意を焼き払う言葉を紡ぐ。
『熱は、息の根を止める麻酔のように全身へ染み渡る』
『染み渡った熱は、烈火の棘を出して体外へと噴き出した』
兎姫乃の書いた文章に乱暴な文章が続く。
ガユガインの文体だ。
他人と交互に文章を書くのは初めてで、なんとなく気恥ずかしくもあった。
『炎は内部で確実に実を結び、少しずつ膨らんでいく』
『炎の実は、その悪意を養分として一滴残らず吸い尽くした』
『炎の花は、散る時を求めて一枚、また一枚とその数を増やす』
文字を連ねる度に蛆の活動は鈍くなっていき、一匹残らず内部に赤熱した核を身に宿して動きを止めた。
ガユガインは、文字を連ねるのを止めて八百万の御代筆をゆっくりと天へ掲げる。
「筆火繚乱!」
号令が、紅蓮の花を開花させた。
秋の夜長に火の花が咲き乱れ、蛆が悲鳴のような溶解音をそこかしこから響かせる。
イザナミの顔は炎の薔薇に埋め尽くされ、蛆とともに花を散らした。
炎の花たちは、本物の花よりもさらに短い晴れ姿を見せて消えていく。
兎姫乃は、祭りの終わりに打ち上がる花火を見終えたような気分になり、手元の万年筆を見た。
役目を終えた太陽のような発光する万年筆が光の粒になって崩れ去る。
蛆を焼き払われたイザナミは、身に纏うものもなく立っていた。
その肌は、兎姫乃の手から崩れ去った万年筆のように光を放ち、向こう側が透けるほどである。髪も目も歯も、とにかくすべて琥珀色の透明だった。ガユガインの目と同じだったのだ。
ガユガインの口にあった頬当ては完全に灰となり、夜風に吹かれて跡形もない。
ガユガインは、八百万の御代筆を両手で捧げ持つとイザナミの前へ差し出した。
八百万の御代筆は、万年筆からイザナミと同じ琥珀の剣へと姿を変える。
「天之尾羽張と対をなすあなたの剣です。返上に参りました」
ガユガインはかしずいて、イザナミが剣を取るのを待った。




