一章 2
兎姫乃は、ここで引き下がったらせっかく優勢になりつつあったディベートに負けるような気がして、背中を見せる気にはならない。そうなると殴られるかつまみ出されるかを選ばなければならなかった。
遠藤は、兎姫乃に出て行く気配がないので振り上げた拳を降ろすタイミングを失い、名誉の回復のためにすべきことが限定される。
間合いが詰まる。
拳の届く範囲だ。
兎姫乃は、できれば顔を殴られたくないと思っていたが、逃げる気はついにおきなかった。
怖じ気づくことのない兎姫乃の目に遠藤は恐怖した。
集合住宅の住人は、みな遠藤を怖れているのに兎姫乃だけは違うのだ。許せなかった。怖れて欲しい。怖れて言うことを聞いて欲しい。兎姫乃の言ったとおり、恐怖政治がしたかっただけなのだ。それを認めるわけにはいかない。集合住宅の規律を守る善良な市民であるはずだと自分に言い聞かせた。
ふと、いつから自分は怖れられることを目指していたのかと疑問に思う。
最初は、誰かに頼まれて苦情を伝えていたはずだったのだ。
思い出せなかった。
それよりも迷惑な娘をたたき出すことが先決である。
遠藤は、良心の呵責を押し切り、拳へ力を込めた。
「まてい!」
どこからか時代がかった口調が飛んできて、遠藤の拳を引き留める。
「な、なんだ?」
遠藤は、暴力を目撃される寸前だったのできょろきょろと見回した。
「ここだ! ここだ!」
声は足下からする。
兎姫乃は足下をうろついているのが野良猫ではなく、プラモデルのような存在に変わっていることへ目を丸くした。
黒光りする柱状節理のようなゴツゴツした鎧を着込んだ若武者がいた。兎姫乃と遠藤を仲裁するように、二人の間に立って両手を振っている。背中には背丈ほどもある万年筆を背負っていた。
「な、なんだ? ロボット?」
「ロボットではない! 文弱猛士ガユガインだ!」
うっすらと光を帯びるプラモデルのような存在は、ガユガインと名乗った。
「なんなの?」
「そこの方は、アンチリアル体に蝕まれている。故に、助けに来た」
兎姫乃の質問へ、ガユガインは背中の万年筆を抜きながら答えた。
「アンチリアル体?」
「今見せてやろう。八百万の御代筆よ、書き討つ敵を明かせ!」
ガユガインの振るう万年筆からシャボン液のような液体が飛び出し、遠藤はもろに被った。
「うわぁっ! なにをす、る? ん?」
遠藤は驚いて、液体を払い落とそうとする。
それは液体ではなく、衣服に染みこんだ形跡も湿った感じもなかった。なぜ、そんなことをするのかと小さな乱入者へ文句を言おうとしたところで、肩に何かが乗っていることへ気付く。
「う!」
「え!」
遠藤と兎姫乃は同時に声を上げた。
遠藤の背後には、真っ黒に染まった上半身だけの鬼がいたのだ。頭から二本の角を生やし、口からは牙が突き出していたのである。力士のような太い手で遠藤の両肩を掴み、愉快そうに笑っていた。
「な、なんだこれは!」
腰の抜けた遠藤は、力なく尻餅をついた。
「人の心に巣くう悪鬼とは、そいつのことだ」
「た、助けてくれ!」
遠藤は、この場で事情を知っていそうなガユガインの前に這いつくばって、助けを求めた。
悪鬼は笑みを消し、ガユガインを叩きつぶそうと拳を振り降ろす。ガユガインのいた都内でも珍しい土の地面がズシンと重い音とともにへこんだ。
「え、本物!」
兎姫乃は理解した。姿を現したことで実態となったのである。抉れた地面は、現実だった。人間に危害を加える化け物が目の前にいるのだ。
「人の後ろに隠れてないで出てきたらどうだ? おーにさんこーちらー」
悪鬼の拳をひらりとかわしたガユガインは、おちょくるように呼びかける。
悪鬼は、ガユガインの言葉が通じたのか、遠藤を引きずって追いかけた。
「ひぃぃ!」
「む、いかんな」
ガユガインは、悪鬼の振り下ろす拳を猫のようにぴょんぴょんと飛んで避けながら独りごちた。
悪鬼は片手でがっちりと遠藤の肩を掴んでおり、離す気配がない。
「ど、どうするの?」
兎姫乃は思わずガユガインに尋ねていた。実際に遠藤が引きずられる姿を見て、馬鹿げた幻想だとは思えない。なにか手伝えることがあれば、協力したかった。感じの悪い男性だったとはいえ、死ぬところなど見たくないのである。
「書く時間が欲しい」
ガユガインはしめたと思っていた。狙い通りだったのだ。
「なにを?」
「文学だ」
「え? は?」
兎姫乃は突然の言葉に混乱する。この状況で文学が出てくる意味がわからなかった。
「文学で悪鬼を浄化する」
ガユガインはだめ押しするように兎姫乃へ告げる。
小説にはカタルシスというものがあった。物語に心を動かされて涙を流したとき、人間の感情は日々の生活で溜め込んだストレスを解消するのだ。
小説に携わる者なら知っている感覚だと兎姫乃へ訴えたのである。
「それは、ハッピーエンドになる?」
尋ねた。兎姫乃の目指す小説は、ハッピーエンド以外になかった。間違ってもバッドエンドになんてしたくなかったのだ。
「もちろんだ!」
ガユガインははっきりと答えた。兎姫乃の目指すものとガユガインの目指すものは限りなく近い。必ず協力し合えると思っていた。
「わかった。鬼を引きつければいい?」
「ああ、頼む!」
兎姫乃は、一寸法師の物語にでも迷い込んだような気分だった。小さなモノノフと鬼退治である。馴染み深さのせいで悪鬼という存在も不思議と脅威に感じなかった。
ざっと公園を見渡す。ブランコと滑り台のある公園。公衆トイレに大きな木。壊れたら誰が弁償するのかと考えてから、忘れることにした。
「おい鬼! 半分にするなら不細工な顔にしろよ!」
ガユガインの手本から、挑発が効くことはわかっている。
小説を書き始めてから言葉の扱いが難しいことを知った。誰かが傷つくかもしれない言葉は使ってはいけないと気付いたのだ。それを破るときがあるとすれば、人命救助に貢献できる場合と相手に人権がない場合である。今回は両方を満たしていると思った。
兎姫乃は罵声を浴びせてから公園の大木の裏へと隠れた。高校生にもなって隠れ鬼をするとは思ってもみない。とはいえ、兎姫乃の幼い頃の記憶でも隠れ鬼をしたことはない。誘われたことはあったが。
悪鬼は、ガユガインをしばらく追いかけていたが、ぴたりと動きを止めて、幹の裏に隠れる兎姫乃をぎろりと睨み付けた。
「その時間差はなによ?」
兎姫乃は幹の裏に隠れてのぞきながらツッコミを入れる。
悪鬼は振り返り、遠藤を引きずりながら猛然と兎姫乃のいる方へ向かってきた。
「きたきた!」
兎姫乃は木の裏から飛び出し、公衆トイレの裏へ隠れるために走る。
背後からはメキメキと木の折れる音がした。
「え、なに?」
走りながら振り向くと、悪鬼がヘッドロックを掛けるように大木を腕で挟み込み、へし折るところだった。折れた木を掴むと、何度か振り回して兎姫乃へ向かって投げつけた。
「うそうそうそうそっ!」
兎姫乃は全力で走り、大木に潰される前に公衆トイレの裏へ逃げ込めた。
枝葉がしなり、紅葉を待たずして落ち葉が舞い上がる。公衆トイレに激突した大木がごとりと地面へ転がった。
引きずられる度に上がっていた遠藤の悲鳴が聞こえない。
「しまった」
完全に悪鬼の位置を見失ったのだ。
公衆トイレの裏から離れるべきか、相手の動きがわかるまで留まるべきか。
悩んだこと自体が失敗だった。
公衆トイレの壁が吹き飛んだのだ。
壁の一部が兎姫乃の肩に思い切りぶつかり、突き飛ばされるような衝撃を受けて倒される。
「いった、わぁあっ!」
兎姫乃がなんとか立ち上がろうとしたときには、両足首を掴まれて宙づりにされた。
逆さまに見ても豚の鼻ような悪鬼は不細工だった。
「まだなの!」
兎姫乃は叫んだ。適度に頑張ったと思う。
それに答えるようにガユガインが声を張り上げた。
「疾筆怒濤!」
兎姫乃の頑張りへ報いるため、ガユガインは書き上げた。四百ポイントほどもある光る粒子のフォントが整然と並んでいた。人類には読めないもつれた糸のような文字だ。中空に浮かぶ五千文字の短編から文字がこぼれ落ち、濁流となって降り注ぐ。
ガユガインが万年筆を振るうと、空から滝が降ってきたのだ。
兎姫乃はその滝に打たれた。
冷たくもあり、暖かくもある不思議な水だった。口や鼻を塞ぐこともなく、呼吸すらできる。さらには服に染みこむことがなかった。水圧で押しつぶされるような感覚はあるのに、服はまったく重くならず、風に吹かれているかのようである。その水は悪鬼から力を奪い、存在を溶かして薄めていった。
悪鬼の腕がなくなり身体が宙に浮く。
兎姫乃は頭から地面へ落ちることを覚悟した。が、いつまで経っても地球との衝突はない。痛みに備えて閉じていた目を開けると、赤々と燃えるような鎧を着たガユガインにお姫様抱っこされていた。
ガユガインが、兎姫乃と同じかそれ以上の大きさになっていたのだ。
「え、大きさが」
「私は、自由に身体の大きさを変えられるのだ」
「便利じゃん」
不思議な滝に打たれながら話すことかと、兎姫乃の冷静な部分が内心でツッコミを入れていた。お姫様抱っこなんて生まれて初めてされたのに、相手がプラモデルから進化したロボットではトキメキもなにもなかったのである。トキメキはないが、火に当るような暖かさをじんわりと感じていた。